ゲリラになった男、足立正生の監督した映画『女学生ゲリラ』(1969)を観た。アホといえばアホだし、甘っちょろいといえば、甘っちょろいのだけど、こういうアナーキーな無邪気さというか、幸福感のようなものには、どうしても惹かれてしまう。この時代の映画は、何故か、人が服を脱ぐ、裸でいる、というただそれだけで、画面がある種の解放感に満ち溢れるように思う。現在の映画では、服を脱ぐくらいでは、画面はちっとも開放的になどなりはしないというのに。やっばり、時代の空気ってヤツなのかなあ。馬鹿みたいな言い方だけど。
しかし、この映画に出ていた、男の子や女の子たちが、今ではもう50才を過ぎているのだろうなあ、と考えると、何か、『時間というものの実在性』みたいなものを感じてしまう。時間は確実に過ぎていって全てを変化させる。しかし、ここには間違いなく、1969年が写っているのだ。映画というのは決して『記憶』に関するメディアではなく、『記録』に関するメディアなのだ、と改めて思う。<学生の頃から、それなりに一生懸命学習してきた、美術史的な流れ、コンテクスト、あるいは作家の固有名、作品の意味等を、今では、どんどんと忘れていってしまっている。「 忘れていってしまっている 」というより、半ば以上意識的に忘れようと努めている、という方が正確だろう。
勿論、人は全く無知のまま、無垢に作品を作ることなど出来ない。そんなものを求めるのは甘ったれたロマンチシズムにすぎない。しかし、それでもなおぼくは、「 必要最低限 」以上の記憶を持ちたくはない。記憶というのは、持ちたくない、からといって簡単に消えてくれるものではないのだけれど。
探し物をしていてたまたま見つけた98年の手帳に、次のようなメモがあった。
『数すくない例外を除いて、絵画というもののほとんどを嫌いになってしまった。美術なんてものとつき合うのはもううんざり、という感じ。ぼくと美術をやっている他者との間に共通するものなど何も信じられない。だからぼくは勝手に「 別のこと 」をする。美術史とも現代美術とも関係なく、ニュウともポストともアンチとも関係のない全く別のこと。ぼくが画面に求めているのは、そういう「 別のこと 」でしかない。もう、開き直って、孤独に、自分勝手にやるしかない。他人につき合っている時間なんてない。』
今のぼくは、当時ほどせっぱ詰まった感情はもってはいないけれど、基本的には、同じような感覚がつづいている。>