1. 絵を描くということは、イメージを操作する技術というより、どちらかというと事物を加工する技術だったりする。ただ、絵画の場合、その事物が特殊な物体であって、平べったかったりする。
ある「 事物 」にぼくの「 身体 」を介入させることによって「 加工 」し、その事物に何ごとかを語らせる技術。「 事物 」そのものを、ある種の「 イメージ 」に変換する技術。あるいは、事物そのものから、イメージを浮かびあがらせる技術。(ここでいう「 事物 」とはモデルやモチーフになる物のことではなくて、カンバスや絵具という、直接絵画の素材になるもののこと)
2. ここで下手をすると、絵画というのは「 私の目から見た(身体を通した)世界像 」ということになってしまう。私という特殊なフィルターあるいはレンズによって変形された世界。つまりそこには「 個性的な作家 」という存在がいて、そこそこ個性的に歪んだレンズをもっている、と。しかしそんなものはもうどうでもいい。
(絵画に限らず、作品というものが、ひとつのパースペクティブのものと、幾つかのイメージなり記号なりが配置されたもの、つまりは、ある世界観を示すようなものでしかないとしたら、ぼくはそんなものに興味はない。それなりには尊重されるべき、無数のマイナーな世界観たち。しかし、世界とはおそらく、一つのパースペクティブや世界観というものなど決して成立出来ないような場所のことなのだ。)
3. 絵画においては、事物を加工するのはどうしても私の身体ということになってしまう。写真や映画なんかだと、事物とイメージとの間に、カメラという機械が介入してくるのだけれど(光学的か機械とてのカメラ、化学的な物質としてのフィルム)、絵画の場合、事物とイメージの間には、私の身体しかない。私は絵具やカンバスに直接(筆などを通してであっても)触れることによってしか、事物を加工することが出来ない。
4. 前田英樹は、生きている身体による知覚は「 中枢的 」なものでしかなく、その身体の行動の可能性と結びつかないものは排除される、と言っている。それに対し、カメラという機械による知覚は、非中枢的なものであり、人間はカメラという機械(ことに、絵画を模倣したような肖像写真ではなく、スナップショットのようなもの)によって初めて、非中枢的な知覚に触れたのだ、と言う。
おそらくそれは正しい。しかし、人間の身体という非常に複雑に出来てしまっている組織が、本当にそんなに簡単に、有機的な統一体として中枢化されてしまっているのだろうか。
5. わざわざフロイトなどという名前を出すまでもなく、人間の身体とはひとつで既に複数であるようなものなのだ。それは本質的に潜在的なアクセス可能性によって開かれた構造をもつ、いくらでも柔軟に変形し分裂しうる、非中枢的な場なのだ、といえないだろうか。
事実、現代の我々の身体は、いくつものメディアとの接続によって、ますますその分裂の度合いを深めている。テレビを観ながらお菓子をつまみ、さらに友人と電話で会話する、なんていうことは日常的にあたりまえにおこなわれている。
6. セザンヌマティスピカソ(ピカソについてはやや保留が必要だけれど)のような、偉大な近代絵画の作家たちがひらいた、絵画作品における複数性という地平を、戦後のアメリカ型絵画が、モダニズムの名のもとに、今、ここにある、ひとつのもの、として一元化してしまった。そしてそれによって、事実上、絵画を殺してしまった。こういう言い方はあまりに一面的すぎることは良くわかっているけど・・・・(ぼく自身、戦後のアメリカ型絵画から最も強い影響をうけている訳だけれど・・・)でも、今は、あえてそう言い切ってしまうべきではないか、と思う。
7. なにも(例えばリヒターのように)カメラという非中枢的な知覚をもつ機械の力を借りなくても、我々の身体が既に複数に分裂したものの束でしかないのだから、我々は自らの分裂した身体によって、新たな複数性の絵画をひらくことが可能なのではないだろうか。
(しかし、ぼくは、複数のパネルやイメージを同時に並べる、といった安易な複数性には違和感を感じる。あくまで、一枚の絵画が、そのままそれとして複数であってほしいのだ。)