くもり。なまあたたかい風。
『あなたの夢は3億円よりおおきいですか?』という宝くじの中吊り広告。画材を購入。
ロスト・イン・アメリカ』というアメリカ映画についての本で、青山真治は、スピルバーグとキャメロンの『タイタニック』に共通する要素として、スペクタクルの肝心なポイントで、横のものが縦になる、と発言している。
横のものが縦になることで、負荷がかかり、ある緊張感が生まれる。縦のものが横になっても、それは自然になったという感じで、そこには緊張は生まれない。かえって緊張は解決された、というか解消したという感じになる。横のものを縦にすることは、緊張感を生むもっとも原始的で単純なやり方といえるだろう。横たわるものが縦になる(立ち上がる)と言っても、それは必ずしも、何かを打ち立てる(建立する)ということではない。スピルバーグの『ロスト・ワールド』で2連結車が崖から落ちそうになるときでも、あるいはキャメロンの『タイタニック』などは当然なのだけど、横のものが縦になる瞬間というのは、むしろ何かが崩れる、崩壊する、瞬間でもあるのだ。しかし崩壊が完了してしまえば、それは再び横になる。(ドゥルーズは確か、ベケット論で、ベケットにおいては立っているものが横になることによって、その最終的な形態を得る、と書いていた。)何かが崩壊する直前に、横たわっていたものが立ち上がる。この時の衝撃に無感覚であってはならない。
ぼくは自分の作品をつくるとき、画布を床に寝かせて制作する。これはとても重要なことなのだ。ぼくは立っているカンバスに手を入れることに対して、とても抵抗を感じてしまう。これは多分ぼく自身の人格的な欠陥のようなものと結びついていて、何かを強い意志でもって、抵抗にも屈せずに成し遂げようという気がないのだ。だからまずぼくは、自分自身の資質を一旦受け入れ、横たわった画布に絵具をのせてゆくことから始めなければならない。しかし絵画は最終的には立ち上がらなければならない。なぜ、立ち上がらなければならないのかは、よく分らないのだけど。大学の時などは、枠に張らない画布を、床に置いたままの状態で展示したり、ルイ・カーヌのように半分壁に、半分床に、という工合にL字型に展示したりしたこともあるのだけど、それだとどうもなにか違う。多分、絵画は自然なものではないからだろう。絵画は、意志の力で立ち上がらなければいけないのだ。
横になっているものが、ただ縦になっただけでは、それは立ち上がったことにはならない。自分の力で立てる、堅さ、をもつ必要があるように、どうしても感じてしまう。例えば、紙に描いたものを壁に張っただけでは、それはまだ自然に近くて、周囲の環境と地続きなままなので、横になっているのと大してかわらない。画布は、パネルや木枠に張られて周囲から切り離されることで、それ自体として立つことができるようになる。例えば、壁に立て掛けて置いても立っていられる。(それでも、立て掛けるための壁、は、必要なんだけど。)それで初めて、絵画が環境から引き剥がされたものとしての、平面、という次元を獲得する。ちなみにぼくは、描き始める時点では画布を木枠にきちんと張ってはいない。きちんと張られたカンバスは、もうそれだけで出来上がっているので、そこに何か加えようとしても跳ね返されてしまうような感じなのだ。ここにもぼくの意志の弱さが出てしまっているのだが、だからとりあえずぼくは、自然に近い状態から描き始め、それを徐々に平面という次元に近づけてゆくしかないのだった。
横にして描き始められた絵画が、ある瞬間に縦になる。ある程度手が加えられた作品を、1度、壁に立て掛けてみる。これはやはり衝撃的な瞬間で、このとき、何かちょっとした、しかし決定的な変質が起こるのだ。しかしその一度目の変質だけでは足りず、それは再び崩れて横になり、そこにまた手が加えられる。
描き始める時点で、完全に平面として周囲から切り離されてはいない状態で始められるぼくの作品は、多分、最終的にも、完全には平面としての次元を獲得することは出来てはいない。(ごく単純な問題として、たるみ、や、しわ、が残ってしまうし。)とても中途半端な状態でありつづけるだろう。でもそれは決して悪いことだとは思っていない。むしろその中途半端さにこそ意味があるのではないか、とさえ思う。
繰り返すけど、絵画は自然ではない。それは横たわっていたものが縦になる、その時の衝撃で成り立っている。でもそれは建立するというより崩壊することに近い。崩壊寸前で、最後のひとふんばりで、なんとか持ちこたえるようなものなのだと思う。