石川忠司『現代小説のレッスン』(2)

●『現代小説のレッスン』(石川忠司)の村上龍についてのところで、村上氏の小説で、「眼」の欲望が歪んだものにならず、「健康」であることが出来ているのは、もともとそこに「内面」や実質のある「情念」が存在しないからではないか、ということが書かれている。だから村上氏の小説において(内面的な)「告白」がなされる時、それがしばしば空疎でオヤジ臭い「説教」になってしまう、と。「説教」とはつまり、あるべき内的な実質(情念)を欠くことによって、一般論へと零落してしまった「主張」のことだ、と。この指摘は、最近の村上氏の仕事をみる限りとても説得力があるようにみえる。しかしぼくは、ここには重要なものが見落とされているように思う。
これはよくいわれることだと思うのだが、村上氏の登場人物を特徴づけているのは、コンプレックスという感情であろう。それは文字通り複雑なもので、それは基本的に、より美しいもの、より強いもの、より豊かなもの、への強い、そして単純な「あこがれ」であるが、同時に、自分はそれらのものに比べて劣っているしかない、という感情的屈折を常に伴うもので、だからそれは、美しく、強く、豊かなものの方へと向かって行こうとする強い傾向を生むだけでなく、しばしば、醜いもの、弱いもの、貧しいもの、に対する強い嫌悪の感情へと反転する。この複雑に合成された感情こそが、村上龍的人物の情念の実質としてあり、その内面をかたちづくっているのだと思う。コンプレックスこそが、村上龍的人物のほとんど唯一の内面的作用であって、この作用によって、人物の感情が多様なニュアンスを帯び、繊細な揺れ動きをみせる時、村上龍の小説の最もうつくしい瞬間があらわれるのだと、ぼくは思う。『トパーズ』に納められた小説たちに繊細な震えと深み説得力を与えているのは、ほとんど内面が存在しないような女の子たちの内部にあるこのような感情の屈折が生み出す陰影であり、その深さであるし、『テニスボーイの憂鬱』の主人公の郊外の成金の薄っぺらな生活に、豊かな陰影とニュアンスの幅を与えているもの、コンプレックスという実質ある「情念」であろう。(『テニスボーイの憂鬱』を読んだのはもう随分と前なので、記憶による変形がされてしまっているかも知れないが、確か次のようなシーンがあった。主人公が、とてもきれいな女の子を何人も連れた男とテニスの試合をすることになるのだが、その男が連れている女の子があまりにきれいなこと、そして男がそのような女の子を何人も連れていることが「さも当然であるかのように」振る舞っていることなどから、男に対して強烈にコンプレックスを感じて、身体が全く動かずにボロボロのプレーをしてしまうのだが、試合の途中でふと、男を応援している女の子の大きく開けた口のなかに「金歯」を発見し、こんなに完璧にきれいな女の子でも口のなかに不幸を隠しているのだ、と思うと急に勇気が湧き、身体が動くようになる。このシーンこそ、典型的に村上龍的なシーンだとぼくは思う。村上龍的なコンプレックスと谷崎潤一郎的なエロが合成されているというか。)村上龍の小説の題材が、社会的な現象や経済などに向かってゆくのは、コンプレックスという感情が、多くの場合、社会的な関係性や経済的な格差によって発動されるからではないかと思う。
ただ、このように、コンプレックスが、豊かで、繊細で、深い陰影をもつ形象を生み出すこともあれば、そうでない場合もある。美しく、強く、豊かなものの方へと向かって行こうとする強い傾向が、単純で下品な上昇志向へと結びつくこともあれば、醜いもの、弱いもの、貧しいもの、に対する強い嫌悪の感情が、凄く安易にその攻撃対象を見いだしてしまうこと(この時しばしば、抽象化され一般化された「日本」や「日本的なシステム」が攻撃対象となるだろう)もあるのだ。そしてこのような時にこそ、石川忠司の言う実質を欠いたオヤジ臭い「説教」が浮上してくるのだと思う。つまり、作家を作家たらしめている「実質」的なもの(コンプレックス)は、ほとんどの場合諸刃の剣であって、その作家の最もうつくしい部分であると同時に、それはほとんどそのまま、もっとも弱い部分であるのだ、ということだと思う。