石川忠司『現代小説のレッスン』(1)

石川忠司『現代小説のレッスン』はとても面白かった。この本は中身がぎっしり詰まった本で、もし「文芸批評」みたいな(作法をふまえた)書き方で個々の「作家論」として書かれたとしたら、相当に分厚く立派な現代小説論集になっていたと思われるが、そういう書き方はしないで、平明で、さらっと読めるくらいの分量の(現代小説入門や読書ガイドとしても使えるような形で)新書として圧縮して書かれているところに一つの意味があるように思う。これだけの分量なので、個々の作家の作品について余すところ無く描き出すということは出来ないが、それでも、それぞれの作家の特色についてかなり鋭く切り込むような垂直的な深さを持つと同時に、個々の作家の固有性を超えて、現在において小説(というか文字によって「物語」を語る事)がとり得る様々に可能なあり様の一般的な一覧表のような意味ももつ、立体的なつくりになっていると思う。例えば、村上龍における、描写の「人間」と「知覚作用」との分離、「内面」の希薄さ(浅さ)、主人公の「ガイド」としての役割等は、村上龍の特徴であり、村上龍という作家の固有性を形作っている(それらの要素が統合されて「描写のエンタテイメント化」がなされる)というだけでなく、それぞれの要素は、現代の小説が必然的にそうであるしかないようなあり様の一要素として、様々な作家に分有されていることが示される。
この本では特には言及されてはいないが、主人公の行為によって世界が変質し、物語が展開してゆくのではなく、主人公はただ、作品が示す世界像(世界観)と読者(観客)を結ぶための媒介(ガイド)でしかなく、読者(観客)は、主人公の身体や感覚を通じて、その世界の中を通過し、それをありありと感じることになる、という「作品」のあり方(物語の語られ方)は、なにも村上龍にだけ特徴的に現れているだけでなく、現在のフィクションの多くに、きわめて一般的に使用されている方法であろう。(小説ではなく映画だけど、この日記で最近触れた作品でも、青山真治レイクサイドマーダーケース』の役所広司や、宮崎駿もののけ姫』のアシタカが、そのような主人公であり、そのような物語である。)これは、限りなく複雑化し、どこまでも無限定に広がっていて、仮に超人的な能力を持っていたとしても、個人の力だけではどうしたって動かしようのないくらいに「大きな世界」を、あるいは、様々に対立する多数の立場から、ある特定の立場だけを特権化することが出来ないような「複雑な世界」を、「物語」が描こうとする時、必然的にそうするしかない形式としてあるのだ。これは、事件の謎(真理)の全てを把握する名探偵のいる物語ではなく、ただ状況に巻き込まれ翻弄されて奔走する探偵の登場するハードボイルドのような世界といえる。
それでもなお、主人公が名探偵と同等の存在として、つまり、世界のなかの任意の一人ではなく、世界そのものと拮抗し得るような特別な「一人」であることが強く希求される時、個人の能力や内面(頭の中)が際限なく拡張されるか、あるいは、個人が世界にまで拡大されるのではなく、個人の自意識=世界となる、という転倒が起こる。このような物語のあり様(いわゆるセカイ系とか、誇大妄想的構築系)こそが、村上春樹からライトノベル(舞城王太郎)への流れとしてある。だからこそ、村上春樹においては、恋人の死によってメランコリーが発生するのではなく、あらかじめ存在するメランコリーが恋人の死を要求するのだし、舞城王太郎において、登場人物は(ほぼ「思い通り」の)超人的、非限定的な力を発し、文章はリズムにのみ従って「物」による抵抗がなく滑らかに流れ、あらゆる事柄はすんなり、あっさりと進行し、決めセリフのような含蓄のある「いい事」が言われたとしても、それは「いきなり」いわれるのであって、そこにはそれが言われるに至るプロセスがかけているのだ。(世界=自意識だからこそ、それは容易に自己言及的、メタ的なものを召還する。)
登場人物が世界に何ら影響を与えることのないガイドとして存在するのでもなく、かといって、世界全体が登場人物の内面(頭のなか)へと閉じ込められるのでもなく、登場人物の存在や行動と世界のあり様の変質とが相互に関係し、密接に絡み合うような実質を持つ「物語」を語ろうとするならば、その物語が語る「世界」を、個人の行動が届く範囲に限定する必要がある。そしてその限定のされ方やその範囲の様々に可能な設定こそが、そのまま、それぞれの作家(それぞれの物語)の特徴を示すことになろう。そのような作家として挙げられているのが、おそらく保坂和志であり、阿部和重(そして藤沢周平)であると思われる。(阿部和重には村上春樹=舞城王太郎的なものとも親和性があるのだが、阿部氏においてはプロセスへの強いこだわりがあり、プロセスのもつ即物的な性格によって、世界=内面の内的な統一性は崩れて、無様で滑稽な場面が浮上する、のだと思う。)
そしてそれらのどの作家とも異なり、登場人物が、世界に対して「働きかけていないけど、働きかけている」というアクロバティックな(近代的な視線の)あり様を示しているのが、水村美苗だ、と。
『現代小説のレッスン』が示している、現在の物語のあり得るあり様の見取り図を、きわめて大雑把に要約すれば、おそらくこのようになるのではないだろうか。