清水崇『輪廻』をDVDで

清水崇『輪廻』をDVDで。これはとても面白かった。清水監督の作品としては『呪怨』のオリジナル版(最初にビデオで出たやつ)以来のよい作品だと思う。まあ、『呪怨』は、とにかくバラバラな小ネタを圧縮してつないでゆくことを徹底してやったことで結果としてすごく面白いものになった、という感じだけど、『輪廻』では、ようやく清水監督が、自分のやりたい事をきっちりとやれるようになったようにみえる。劇場版の『呪怨』は、全然駄目な映画だと思うけど、唯一、刑事の田中要次が、呪いのもととなった家に、そこを焼いてしまおうとして忍び込んだ時に、そこで、(時間を超えて)高校生になった自分の娘の姿をみる(つまり、将来の娘もまた、この家の呪いに捕われるのだが)シーンがとても印象に残った。つまり、「同じ場所」という媒介によって、決して繋がるはずのないものが、ふいに繋がってしまう瞬間の描き方(そこに生まれる不思議な叙情性のようなもの)がとてもよくて、ぼくはそこに清水監督の「作家性」を感じたのだった。で、『輪廻』は、まさに、その点が追求されていたように思う。
『輪廻』は、たんに『呪怨』で住宅街のなかの一軒の家だったものが、打ち捨てられたホテルにかわっただけだとも言える。しかしまず、脚本を含めた全体の構築がしっかりしている。そして、俳優の演技もちゃんとしている。この二点は、以前の清水監督の明確な弱点で、つまり「怖がらせるシーン」以外があまりにも弱かった。しかし、『輪廻』ではむしろ、それぞれの「怖がらせるための細部」よりも、「輪廻」という主題を用いて、繋がらない(切り離されている)もの同士を、どのように重ね合わせたり、ふいに繋げたりできるのか、という描写の方が優先されているように思えた。そしてそのためにこそ、構成(時間と空間の操作)がしっかりと組まれている。(椎名桔平の部屋と優香の部屋が、ホテルの廊下で繋がったり、椎名桔平が、殺された男の子がもっていたゴムボールをふと受け取ってしまったり、殺人者のナイフに優香の顔が映ったり、する描写など、とても良いと思う。それらの描写は皆、物語上の意味があり、それが綿密に張り巡らされている点も面白いのだが、それを超えて、たんにその描写だけみても充分面白い。)そして、意外な結末というか、「オチ」には、へえーっ、そうくるのか、と関心させられるのだが、しかしその「オチ」が「オチ」として有効なのは、なによりそこに至るまでの優香の演技がとてもしっかりしているからで(そして監督がそれをきっちり捉えているからで)、これは劇場版『呪怨』の(中途半端な)人気女優をあつめてなんとなく豪華感を出しただけ、というのとは全く異なる。(あと、清水監督はいつも、年配の人物を出すと皆コントの登場人物みたいになってしまうのだけど、この映画の殺人者の妻は、ギリギリセーフという感じだった。)
実も蓋もない言い方をすれば、ホラーというのはあきらかに反復強迫的なもので、つまり外傷が何度も回帰するというようなもので、この映画もまた、典型的なそういう話で、ホテルで起きた殺人事件が、生まれ変わった別の人物たちによって再演されてしまうという話なのだけど、しかしそこでは単純に「生まれ変わり」のような魂の同一性が肯定されているのではなく、むしろ、異なる者、(空間的にも時間的にも)切り離されているはずの者たちが、媒介となる場所や、仕草、物、あるいは、セットや模型や写真といった表象物、「映画の撮影」というような表象する行為などの媒介によって、ふと回路が繋がってしまう、という事態が、非常に複雑な構成によって描かれている。だからこの映画での主題は、「輪廻」というような同一の本質(外傷)の強迫的反復にあるというよりは、複数の切り離されてあるものたちが、ある時(ある媒介物によって、あくまで間に媒介物を挟みつつ)ふと繋がってしまうという事態であり、その時に生じる、(繋がることで生まれる)ある種の「懐かしさ」と(しかし、実は隔てられているのだから)同時にあらわれる「悲痛さ」にあるのだと思うつまり、ふいの繋がりによって、隔たりがより一層意識される。。(外傷の強迫的反復を強く感じさせるのはむしろ、清水監督の師匠でもある高橋洋であろう。)
バラバラに隔てられている複数の次元にあるものたちが、何かしらの媒介によって次々に繋げられること、そして、それらが繋がってしまうこと(短絡すること)を促す力動を支えるものとして、何かしらの外傷的記憶が存在すること、などをみれば、基本的に『呪怨』とかわらないとも言える。しかし、小ネタの圧縮によって成立する『呪怨』にはなかった高度な叙情性が『輪廻』には(というか、オリジナル晩『呪怨』以降の清水監督の作品には一貫して)ある。