いまおかしんじ『たまもの』(2005年)をDVDで

いまおかしんじ『たまもの』(2005年)をDVDで。いまおかしんじ(今岡信治)の映画を観たのははじめてだけど、なるほどこれは評判になるのも当然だと思った。圧倒的な傑作というのではなくて、様々な要素の絶妙なバランスによって出来上がった、奇跡的に微妙な作品という感じだろうか。実際、観始めてからしばらくは(かなり長い時間、下手すると全体の半分くらいの間)、面白いのか面白くないのかよくく分らないモヤモヤした気持ちのまま、それでも不思議と惹き付けられる感じで観続けることになる。主演の林由美香の演じる、歳食った「不思議ちゃん」みたいなキャラには、ずっと違和感を持ち続けざるを得ないだろう。しかし映画の終盤になると、いつの間にか(違和感も含めて)この主人公の存在を受け入れてしまっている自分に気付いて驚くのだ。海岸で、走っては転び、走っては転ぶを繰り返すシーンなど、いまどきアイドルのイメージビデオだってこんなに「寒い」シーンはないだろうと思うのだけど、それがこの映画のなかでは成立してしまっているのだから凄い。この映画はまさにこの主人公の存在によって支えられていると思うのだが、この主人公がリアルな説得力を持っているとすれば、それは現実にこういう人がいそうだということとは全く別の次元で、この映画をかたちづくっている様々な要素の総合によって成り立つ強さに支えられている。この映画は、俳優の存在やその演技、撮られた風景などの諸々ふくめて、「撮影する」という行為のなかでしか出来上がらないような映画なのだろう。もし事前にこの映画の脚本を読む機会があったとしても、こんな脚本から面白い映画が出来るとは思わないだろう。(ラストの顛末なども、お話としてはあまりにありがちだとも思うし、だいいち、若い恋人に毎日弁当をつくって押し付けるうざい女の話など、あらすじを聞いただけなら観たいとは思えない。)監督が、撮影の前の段階で、この映画のどこに面白くなるという勝算を見いだしていたのかが掴めない。あるいは、完成された映画を見終わった後でも、この映画が「何によって」このように面白いものとなっているのかが、よく分らない。おそらく「ここが面白い」という明確なポイントなどなくて、様々なちょっとした要素が重なり合い、絡み合うことによる絶妙なバランスでそうなっているとしか考えられない。
●普段は、DVDで借りて来た映画のオーディオ・コメンタリーなど聞かないのだけど、この映画を観終わった後、不思議に捉えどころのない印象が残って他に何をする気にもなれずに、監督と主演の俳優たちによるコメントをだらだら聞いていた。監督が喋っていたことで面白かったのは、撮っている途中、当然この話の結末がこうなるというのを知ってしまっているので、つまり登場人物の未来を知ってしまっている自分が、その瞬間ではまだ先がみえていない人物としての俳優を演出する訳で、その「知ってしまっている」ことをどう処理すればいいのか迷った、と言っていたことだった。あと驚いたのは、この映画の性交シーンでは俳優たちが実際にセックスをしているということだった。ぼくは現在のピンク映画についてほとんど知らないので、このことがどれ程度に珍しいことなのか分らない。ただ、実際に「ヤッて」いるとなれば、それは俳優たちの呼吸があるから、監督が細かく演出することも出来ないだろうし、カメラの位置だってそうそう変えることも出来ないだろうし、「流れ」もあるので「時間」を好き勝手に操作することも出来なくなるだろう。しかし逆に、実際に「ヤッて」いることで、そのシーンの時間や流れを決定するための「根拠」のようなものが得られとも言える。この映画での性交シーンは、「本番」をウリにするような生々しいエロがあるわけではなく、とちらかというと割とだらだら続いている感じで、しかし実はこのだらだらした時間こそか「本番」によって得られたものなのかも知れない。
●この映画は誰でもそう思うだろうけど主演の(亡くなった)林由美香の魅力によって成り立っているような女優の映画であるのだけど、ではその魅力というのがいったいどこにあるのかも、よく分らないのだった。この主人公は痛い不思議ちゃんで、しかも微妙に歳をくっている。でも、その痛さや、痛さにゆえのひたむきさのようなものがシビアに(リアルに)追求されている訳ではない。かといって、まったくあり得ない浮遊したキャラクターとして造形されているわけでもない。ある意味幻想的なヴェールに包まれてあり、戯画的なまでにデフォルメされてもいて、しかし妙にリアルでもある。「実写」映画であることによってはじめて得られる抽象性のようなものがある、と言えばよいのか。この映画では女優の「仕草」がとても緊密に組織されている。仕草そのものが「映画的」に「キマッて」いるということではなくて、それがあくまでも映画全体のなかの、主人公の存在の仕方と分ち難く結びついているようにみえる。