●今頃という感じだけど『世界史の構造』(柄谷行人)読み始めた。おもしろい。たとえば、互酬という原理を交換様式のドミナントとする前国家的な氏族社会について、次のようなことが書かれる。これは、中枢(国家)が出現する/しない条件について書かれているとも読める。
《互酬によって形成される高次の共同体は、国家が農業共同体を統合・従属させるのと違って、下位共同体を統合・従属させるものではない。部族社会では、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性は消えない。その意味で、部族内部にも敵対性が残りつづける。このため、贈与は、ほかの共同体との間の友好関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。たとえば、ポトラッチのように、相手を返済できないほどの過度の贈与によって圧伏させるものとなる。もちろん、これは相手を支配するためにされるわけではない。共同体の独立性(威信)を守るために、いいかえれば、ほかの共同体からの脅威から解放されるためになされるのだ。それはまた、共同体内部の同一性を強化するためである。》
《この意味で、血讐も互酬的である。たとえば、共同体の成員がほかの共同体の成員によって殺された場合、報復(reciprocating)がなされる。報復の「義務」は贈与・返礼の「義務」と似たようなものだ。共同体の成員が殺された場合、それは共同体所有の喪失であるから、加害者の共同体に同じ喪失をこうむらせることでしか償われない。だが、血讐がなされると、それに対する報復がなされ、それがとめどなく続くことになる。ポトラッチにおける贈与の応酬がどちらの共同体も破滅させてしまうことがあるが、血讐も同様である。血讐が禁じられるのは、犯罪を裁く上位組織(国家)が成立するときである。逆にいうと、このことは、血讐が国家の形成を妨げることを示している。血讐は上位組織に対する各共同体の独立性を回復するからである。》
《贈与の互酬は、クラ貿易が示すように、多数共同体の連合体、いわば「世界システム」を形成する。こうした連邦は固定したものではなく、つねに葛藤をはらんでいるから、時折新たな贈与の互酬によって再確認されなければならない。互酬によって形成される共同体の接合は環節的である。つまり、上からそれを統合するような組織、すなわち、国家にはならない。おそらく、こうした部族連合体の延長に、首長制国家(chiefdom)を置くことができよう。それは国家のすぐ手前である。しかし、ここであくまで国家に抗する互酬の原理が働く。国家が出現するのは、互酬でない交換様式が支配的になるときである。》
《(…)レヴィ・ストロースが示した例は、バンドとバンドの間に恐ろしい「自然状態」が存在するということ、贈与がそこから脱出する方法としてある、ということを示唆している。ホッブスは国家を、自然状態を脱し平和を得る社会契約として見たが、サーリンズは、贈与にも一種の社会契約を見ることができるという。いうまでもなく、これは、ホッブスが国家形成の根底に見出した社会契約とは異質である。ここでは「自然権」の譲渡はあるが、それは全面的な譲渡ではない。そのため、下位集団は独立性を保持する。つまり、権利を贈与された側は贈与した者を拘束する権限をもつと同時に、逆に、贈与した者に拘束される。彼らの関係は「双務的=互酬的」(reciprocal)なのである。》
《上位集団もまた下位集団に拘束される。したがって、氏族から部族へ、部族から部族連合へと、高次の集団ができても、それはハイアラーキカルな体制にはならない。》
●この本では、社会的に主流となる交換様式が「互酬(贈与と返礼)」(対称性)から「略取-再分配(支配と保護)」に変化した時に国家(中枢)が生まれるとしている。