●『世界史の構造』(柄谷行人)の第一部の最後のところではフロイトの『トーテムとタブー』が引用され、部族社会では《原父を、たえずあらかじめ殺しているのだ》と書かれている。まぎらわしい書き方だと思うけど、これはつまり「原父」が社会に決して発生しないようなシステムが「互酬」(これは、対称性と言い換えられると思う)という交換形式だということだろう。
だから国家が生まれるとすれば、その時、そこには交換様式の大きな変化があったことになる。
《実は、この時期に、「労働を節約する技術」が発明されているのだ。それは労働の組織化であった。灌漑農業において、重要なのは農耕労働よりも、治水灌漑の工事である。このような労働は、狩猟や採集と似ていないだけでなく、栽培や農耕とも似ていない。それはウィットフォーゲルがいったように、重工業に近い。それには、多数の人間を組織し「分業と協業」をさせるシステム、そしてディシプリンが必要であった。》
《自然に対するテクノロジーという意味で、古代文明がもたらした革新はさほど大きくない。だが、人間を支配する技術という意味で、それは画期的だった。そもそも、考古学的に時代を画する「青銅器」や「鉄器」といったものは、生産手段としてよりもむしろ国家による戦争の手段(武器)として考案され発達させられたものである。さらに、人間を支配するテクノロジーとして最も重要なのは、官僚制である。官僚制は、人間を人格的な関係あるいは互酬的な関係から解放する。軍隊もまた、官僚制による命令体系によって組織されるときに強力となる。》
《さらにいうと、人間を支配する技術とは、たんなる強制でなく、自発的に規則に従い労働するディシプリンを与えることである。その観点から見て、宗教が重要である。(…)サーリンズがいうように、狩猟採集社会の人々は短時間しか労働しない。そのような人たちを、土木工事や農業労働に従事させるには、たんなる強制では足りない。むしろ自発的な勤勉さが必要なのである。彼らの労働倫理の変化もまた、宗教的なかたちをとったといっていい。(…)彼らが勤勉に働くのは、強制ではなく、信仰によってである。しかも、それは空文句ではなかった。王=祭司は実際に、そのような農民を軍事的に保護し、且つ再分配によって報いたからだ。》
《(…)国家の成立が、共同体間の「互酬」が禁じられるときだということがわかる。たとえば、シュメール以来の法を集大成したバビロニアの『ハムラビ法典』の中に、「目には目を」という有名な条項がある。これは「やられたらやりかえせ」という意味ではまったくない。その逆に、とめどなく続く血讐(ヴェンデッタ)を禁止することである。それは犯罪や共同体間の確執を、彼ら自身ではなく、その上位にある国家の裁定によって解決することを意味する。(…)血讐は共同体が上位の組織に対して自律性をもつことを意味するから、「目には目を」という法は、下位共同体の自律性を否定することである。》
●では、なぜ国家=官僚制が生まれるような変化が起こったのか。この本ではそこに「恐怖に強要された契約」という新たな交換が生じたことによると書かれている。この時、一方は生命を得、他方は金または労働を得るという交換が生じたのだ、と。
ある共同体が別の共同体を征服した時、その征服が一時的な略奪(と虐殺)に終わるのではなく、持続的な支配となるためには、支配する側とされる側とにホップズ的な社会契約がなされる必要がある(支配される側も合意する必要がある)。命を助けるかわりに労働し、税を納めろ(命を助けてくれるのであれば、労働し、税を払う)、と。命を助けるとは、この場で殺さないということだけでなく、今後は外からの攻撃からも守る、ということだ。奴隷は、支配者にとって財産であるから、それを生かし、守る義務が生じる。これにより、互酬的でない交換様式(略取と再分配)が生まれ、それを元にした国家が成立する、と。
《「恐怖に強要された契約」は交換である。というのは、服従する者には「服従を条件にその生命を与える」からである。他方、支配者はそれを実行する義務がある。ホッブズは、一見して交換とはみえないようなものが、実は交換であることを見抜いたのである。(…)ホッブズはいう。《被征服者にたいする支配権は、勝利によってではなく被征服者自身の契約によって与えられる。彼は征服されたために、つまり戦いに敗れて捕らえられ、あるいは脱走したために義務づけられるのではない。みずから進んで征服者に服従したため義務を負う》。国家は、被支配共同体の側が支配されることに積極的に同意することにおいて成り立つ。》
《征服者(支配者)は、被征服者から収奪する。しかし、それがたんなる収奪であれば、国家を形成しない。国家が成立するのは、被征服者が略奪される分を税(貢納)として納めるときである。そのとき、「交換」が成立する。なぜなら、被征服者はそれによって、自らの所有権を確保することができるからだ。すなわち、彼らは国家から税や賦役を収奪されるとしても、国家以外の誰からも略奪されることを免れる。この結果、被支配者は賦役貢納を、たんに支配者の強制によってではなく、逆に、支配者が与える贈与(恩恵)に対する返礼(義務)としてなすかのように考える。別の観点からいえば、国家は、略奪や暴力的強制を「交換」の形態に変えることによって成立するのである。》