2022/05/25

●「新潮」2月号に載っている「ブロッコリー・レボリューション」(岡田利規)、とてつもなくすごかった。「わたしの場所の複数」が、16年後に、こういう形に展開されるのか、と。それにしても、小説家としての岡田利規の語りは、いつも男女の関係(男女の非-関係、と言うべきかもしれないが)によって駆動されるのだなあと思った。

(いや、これはチェックが必要かもしれない。「ぼく」という一人称は---例外はあるとしても---常識的に男性のものだと考えられるし、「レオテー」は「彼女」と書かれているが、「きみ」が女性であるとはどこにも書かれていないかもしれない。)

主に前半部分で、微妙に意味を変えながら執拗に繰り返される《ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれど》という文言が、呪文的なリズムをつくってドライブをかけていく語り。「ぼく」が、「きみ」についての、《いまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してない》ことについて語る。「きみ」がタイのバンコクにいるということを知らない「ぼく」が、バンコクの「きみ」のことを語る。それも、「きみ」が感じている微細な感覚(ホテルの床のタイルの感触や、本の表面のざらざらした感触など)や内心(東京の湿気は耐え難いがタイの湿気は少しも不快ではないこと、ホテルの部屋をシェルターのように感じていることなど)にまで入り込んで、詳細に語る。「ぼく」から逃れるために、「ぼく」に内緒で、日本を出てタイへと逃げた「きみ」の様子を、「きみ」の解放感を、逃げられた「ぼく」が語る。途中で「レオテー」という第三者が出てくるまで、この小説は、「きみ」のモノローグと「ぽく」のモノローグという二つの軸のモノローグで構成される。内容的には「きみ」のモノローグが中心=主であるが、しかしそもそもそれを語っているのは「ぼく」なので、「きみ」のモノローグはすべて「ぼく」のモノローグに包摂されてしまう(「ぼく」のモノローグ ⊃「きみ」のモノローグ)。「きみ」のモノローグのすべてを支配(包摂)しようとする「ぼく」のモノローグから、「ぼく」という存在の気持ち悪さが立ち上る。ある意味で、「きみ」のモノローグのすべてに、「ぼく」の体臭が染みついているとみることもできる。

しかし、必ずしもそうとは言い切れない。「きみ」のモノローグには、それ自身として自律していると十分に感じさせるに足りる、詳細さや生々しさや強さがあり、それが「ぼく」のモノローグに内包されてあることを拒絶している。「きみ」のモノローグが完全に「ぼく」のモノローグに内包されるということはつまり、語られた「きみ」の様子はすべて「ぼくの妄想」ということになるし、それを否定しない文言が作中に書かれもするが、だとしても、「きみ」が「ぼく」の妄想だというのは、たんに(たまたま語り手という位置にいる)「ぼく」の意見に過ぎず、「きみ」はその意見に同意しないだろう。「きみ」のモノローグは、形式的、構造的には「ぼく」に従属するが、モノローグそれ自身の内的充実によって、その従属から逃れ、自律的強さをもつ。形式的に「きみ」を従属させようとする「ぼく」と、内的、強度的に「ぼく」から逃れようとする「きみ」という関係は、物語内容とぴったり重なっているとも言える。

形式的には、「ぼく」が語り手の位置にいて、あたかも「きみ」のモノローグを従属的に操作できるかのように見える。しかし、そもそも、語り手である「ぼく」を「語らせている力」は、「ぼく」自身によっては決してコントロールできない負の感情だということを忘れてはならない。「ぼく」はそこから逃れようと必死でもがいているが、結局は負の感情に支配されてしまうのだ。言い方を変えれば、「きみ」は「ぼく」ではないので「ぼく」から逃れられるが、「ぼく」自身は「ぼく(の負の感情)」から逃れられない。「ぼく」は、自分のなかに湧き上がってしまう負の感情に対してまったく無力である。この事実は、日本からの旅行者にとって、タイの社会や政治の問題は他人事なので(いつでも逃げられる)、その「問題」すら観光として楽しめるが、タイに住むレオテーにとって、それは逃れられない問題なのだ、ということに通じる。そしてレオテーもまた、「問題」に対する自分の無力を感じ、無力であることに苛立っている。

●一つ重要なことは、語っている「ぼく」と語られている「きみ」との間にある時間的なズレだ。この小説で「きみ」が語られている時期は2018年7月2日から15日だが、それを語っている「ぼく」の位置する日付は約一年後の2019年の7月4日前後である。「きみ」の存在は、タイの洞窟に閉じ込められたサッカークラブの少年たちの無事が確認された日から、ワールドカップ、ロシア大会の決勝---フランス対クロアチア---の試合中にプッシーライオットが乱入した日までという形で現実に紐づけられ、「ぼく」は、オウム事件の麻原の死刑執行の日によって現実に紐づけられる。この事実はまずは、「ぼく」が「きみ」に逃げられてから一年たってもまだ立ち直れないままであることを示すだろう。そしてまた、「きみ」の関心が、海外の、それも自分の利害と無関係なこと---他人事---に向けられているのに対し、「ぼく」が、今ここにある腐った現実と紐づけられているということでもある。この小説の「ぼく」は、「きみ」の「ぼく」への無関心を、「きみ」の「日本の現実」への無関心と重ね合わせて非難している。

この小説で一か所だけ、「きみ」が「ぼく」にメッセージを送ろうと考える場面がある。《その時きみには、きみが得ていた解放感を無性にぼくに見せ付けてやりたくなることがあった》。しかし《すんでのところで自制した》、と。そしてそのあと、これまで抑制的に「きみ」について語っていた「ぼく」が、突如として「きみ」の「ぽく」(日本の現実)に対する無関心を強く非難する調子を前景化させる。そして、「きみ」が「解放感の見せつけ」を抑制したのとは逆に、《ぼくのしつこさがきみを辟易させているだろうことを期待して》決して返事のこないテキストメッセージを《陰気にほくそ笑んで》執拗に送り続けた、と語る。「きみ」が「ぼく」の元を去ったのも、「ぼく」がこのような負の感情の抑制ができないからだった。《(…)ぼくが負の感情を制御できなくなってしまう瞬間というのは大抵きみがぼくに対して繊細さの欠ける言葉を放つ、そのことによって引き起こされたのだった》。「ぼく」のこの弁明が正当であるとしたら(実際、「きみ」は確かにレオテーに対しても繊細さを欠いた発言をする)、「きみ」の「ぼく」への無関心(返事を返さない)は正しい態度だろう。「ぼく」と「きみ」とのダイアローグが負の感情を亢進させるというのなら、ダイアローグをやめることが正しい選択だ。「きみ」がダイアローグを中断することで、二つの並立するモノローグとしての「この小説」がたちあがる。

(とはいえ、「きみ」のモノローグに「ぼく」はほぼ存在しないに等しい---だから解放されている---が、「ぼく」のモノローグは「きみ」を内包してしまっているので、「ぽく」は負の感情を制御できないままだ。)

●たった一人のバンコクで解放感を満喫する「きみ」は、ある時、一人では食べきれない料理を食べたいと思い、そこではじめて他者を召喚することを考える。そして、バンコクに住むレオテーに連絡をとる。おそらくここで、この小説でほとんどはじめてのダイアローグが書かれる。《レオテーが、その手のひらをわずかに上下動させる、秤が重さを量っているようなしぐさをみせながら、この本は持っているだけでエクササイズになるねと言った。重さが何キロなのかは知らないけれど、値段は高いよものすごく、と言ってきみはレオテーの手のひらから本を取り戻し、裏表紙を上に向けた》。この後、「きみ」とレオテーは、彼女の赤いスズキの軽自動車に乗って、旧市街を目指す。ここで「きみ」は、レオテーを相手に、いったん停止していたダイアローグを再開するのだが、ここでの「きみ」とレオテーの関係は、ある程度は「きみ」と「ぼく」の関係の反復でもある。そして「きみ」は、「ぼく」を苛立たせたのと同様に、繊細さを欠いた言葉でレオテーをも苛立たせ、そして、「ぼく」が《聞くに堪えない嗚咽》をあげたように、レオテーも《すすり泣く》のだ。

では、「ぼく」とレオテーとは何が違うのか。「ぼく」は、自分のなかに湧き上がってしまう負の感情を制御できずに、聞くに堪えない嗚咽を上げるが、レオテーは、世界には様々な問題があること、そしてそれに対して自分がまったく無力であることによって、すすり泣く。ここで、「ぼく」が醜悪で、レオテーは美しいとは、簡単には言えない。自分を襲う負の感情に対してであっても、世界の様々な問題に対してであっても、どちらにしても徹底して無力であることに変わりなく、その無力さの前で途方に暮れていることも、どちらも変わりはない。そしてどちらも、「きみ」が無力さと向き合うことから逃れ、ふわふわ浮遊していることに苛立つ。ただ、変わりはないとしても、「きみ」にとって「ぼく」といることは耐え難く、レオテーといることは好ましいのだ(それは、レオテーが「きみ」にとって外国人であり、「きみ」を縛らず、浮遊したままでいさせてくれるからかもしれない)。そして、レオテーにとっても、時に自分を苛立たせるとしても、「きみ」といることは好ましい。そして、そういうレオテーのことを「ぼく」は考えたくない(つまり、考えてしまう)。