2024-10-02

⚫︎唐突なことだが、図書館で『深夜百太郎』(舞城王太郎)の上下巻を借りてきた。上下二冊で、百物語風に怪談が百篇収録されている本。棚にあったのをなんとなく手に取って、一つめの話「アナタタ」の最初の部分を読んで、まるで自分が書いたかのようではないかと驚いたのだ。ちなみに、最後の百篇めのタイトルは「ワタシシ死」だ(まだ読んでいない)。

《アナタタはあなたが外へ出かけるとき、家や自室にそっと残るあなたの分身である私だ。》

冒頭の一文だが、これは「アナタタは…」と、外的対象を説明するかのように始まった文が、「アナタタは~私だ」と、語り手自身と重なって(自分語りとなって)着地するというトリッキーな語りで、しかも、文の頭で「アナタタはあなたが外へ出かけるとき…」と書かれる時点の「あなた」は、読者一般というか、「あなた」と呼ばれ得る人一般に対して開かれた代名詞のように読めるが(「アナタタ」の一般的説明であるかのように読めるので自然に「あなた」もそういうものとして読むが)、文の後半の「あなたの分身である私だ」における「あなた」は、「あなた一般」ではなく特定の誰かである(「私」のオリジナルである)「あなた」を指すように読める。後者で意味がギュッと限定され、その効果で、遡行的に前者の「あなた」もまた「特定のあなた」であったと解釈が変更される。つまり時間が逆行する。「アナタタはあなたが外へ出かけるとき、家や自室にそっと残るあなたの分身である」で終われば。「アナタタ」の説明としてなんということもない普通の文だが、末尾に「私だ」がつくことで一挙に構造がよじれる。これが、あまりに「自分が書きそうな文」なのでドキッとした。

そして、次のように続く。

《アナタタはあなたが外へ出かけるとき、家や自室にそっと残るあなたの分身である私だ。あなたが寝室を出るとき、私は大抵ベッドの足元に立って残り、あなたを見送った後で書斎の机につく。できることなら椅子に座ってペンを取り出し、何かを書きたいと思う。例えばあなたへの手紙を。「やることがなくて退屈です」みたいな恨み節になってしまいそうだからやめておくけど。私は私が生じたあなたのいない空間から外に出られない。あなたが寝室を出たときには寝室に、家を出たときには家に、私は残る。》

引き続き、あー、自分、こういうの書きがち、と思う。しかし、次のところでちょっとした「趣味」の違いが出てくる。

《私はひたすら空っぽで、あなたとは違う。私が持っているべき……とまでは言えないまでも、持っていても良かったものをあなたに奪われて持ち去られてしまったように感じてあなたを憎むような気持ちが浮かばないこともないけれど、でもあなたがいないところにいる私にあなたを責めることはできないし、責めたいとまでは思っていない。そういう部分でも私には何もないのだ。》

依然として、「内容」的には「自分が書きそう」と思うのだけど、ぼくだったら決して「ひたすら空っぽで」とか「何もないのだ」という書き方はしないで、空っぽである様、何もない様を、なんとか具体的に書こうとするだろうと思う。というか、その「具体性」こそが、おそらくぼくが書きたいことだ。「空っぽ」という表現(語彙)が常に必ず良くないというわけではなく、ここで使われる「空っぽ」と言う表現に密度が感じられないということだ(「語彙」の問題ではなく「表現」の問題)。あと、「あなたを憎むような気持ちが浮かばないこともないけれど」というふうに、「憎むほど強くはない」感情を「憎む」という強い言葉を用いて表現することは避けると思う。「奪われる」という強い言葉も、ここではあえて使っているのだろうが、まず「強く」出て、その後にやや「緩める」という緩急の操作を、ぼくは安易に感じてしまう。

《私は影だ。

空っぽの、あなたの残り。》

このように、既に同じようなことが書かれているのに、それを、わざわざ改行して、強く、分かりやすい感じで、改めて再説明するような文を入れることもないと思う。大事なことだから二度言いました、だとしても、ベタに二度言った方が良くて、これだと気取り過ぎ(というか、「感傷」を込め過ぎ)であるように思ってしまう。念の為に書くが、自分が正しいと言っているのではないし、舞城の文章を添削しようとしているのでもない。ただ、「趣味」の違いを、比較することで自分を確かめるようにしてみている。そして、「趣味」というものが場合によっては「内容」よりも重要であるということを確かめたい。

おそらく舞城にとっては、この「感傷」こそがリアルなのだろうが、ぼくにとっては、このような感傷を乗っけてしまうと「分身」のリアリティが「人間」のリアリティにすり替わってしまうように感じる。舞城が書きたいのは「人間」のリアリティの方なのかもしれないが。

《あなたが部屋に、家に、帰ってくると、私は消える。あなたがドアや襖を開ける直前に。直前とは言え、あなたが出かけるときにはあなたの後ろ姿を見れるのに帰ってくるあなたの顔を見ることはできず、ただ消えるので、これはつまり、私はその都度死んでいるのだ。(…)あなたが出て行くときにはすうっとあなたから分離する感覚なのに、あなたが帰ってくると私は殺される。》

この作品では、あなたと私という分身の両立は成り立たず、あなたが帰れば「私」は死ぬし、私が消えなければ「あなた」が死ぬ。分身の排他的なあり方は、この作品のリアリティの根としてあり、基本システムであるようだ。ただここでも、最初に「殺される」という強い言葉を用いておいて、(引用部分にはないが)その後に(あなたを殺してしまうくらいなら)「でも死んでもいい、私は死ぬべきなのだとも思う」と、トーンを緩めるという同様の緩急の操作がなされる。

ここまでは、あなたと私は孤独な感触だったのが、次に唐突に「家族」が出てくる。母や妹、最後は妻まで。この展開は面白く、驚かされ、おおっと思った。

《あなたには家族や友人がいて、そういう人たちがあなたの留守中に私の残った部屋や家に入ってきたりする。洗濯物や忘れ物を置きにきたり、何かものを借りに来たり、掃除をしに来たり。最初はそのたびになんとなく隠れたいたけれど、クローゼットの中だのベッドの下だの全身を隠す場所は限られていて、間に合わなかったりドアを開けられたり覗かれたりで、まあこっちは焦るのだけども向こうは無反応。ああなんだ見えないのか……と思ってたら「あれ ? あんた出かけたんじゃないの ? 」とお母さんに言われたりしてビックリする。ほとんどの場合見えないが、たまに見えるらしい。》

これはすごく面白いのだが、ここからさらに展開して、この「たまに見える分身」は、なぜか他者から「あなた」への悪意や憎悪が凝縮してぶつけられるてしまうのだ、という話になる。ここで、うーんと首を捻る。分身のリアリティから別の所へ主題がズレてしまっているのではないか、と。並立的な分身ではなく、深層的な何か、心の奥底の闇を露呈してしまうような何かになってしまってるのではないか、と思う。

《それから次第に私は気づく。たまに他の人に私のことが見えるとき、その人たちが私にいう言葉にはがある。それは言葉を交わす回数が増えるたびにエスカレートしていってうっすらとした嫌味やどことなしの敵愾心などではなくて、はっきりと、唐突なほどに露骨に私を悪し様に罵り、吐き捨てるように酷いことを言うようになる。それも絶対にあなた本人には言わないような罵詈雑言だ。》

おそらくこれが、フィクションを社会的に流通させやすくするための「加工」なのだと思われる。分身の持つ掴みどころのないリアリティが、上の引用につづいて「怪談」風の話として綺麗に着地する(オチはここには書かない)。分身のリアリティにこだわるぼくとしては、なんでこんなに過剰な加工してしまうのかと思うのだが、作者の意図としては、むしろこの「加工後」の方こそを重きを置いているのかもしれない。

分身のリアリティはあくまで「前振り」で、隠されたままでいれば特にどうということのない他者への弱い憎悪を、わざわざ増幅させて露わにし、吸い寄せてしまうような、「負の媒介者」とも言うべき「呪い」の不気味なあり様こそが、ここで書きたかったことなのかもしれない。