⚫︎U-NEXTで『鉄オタ道子、2万キロ~秩父編』を観ていたら、「こちらもオススメ」というところに『おやじキャンプ飯~京都編~』というのが出てきて、なんとなく観たのだが、これが素晴らしかった。
(「鉄オタ、道子」も面白かった。たとえば、小さな川にかかる、小さな二本の橋を縦構図で同時にフレームにおさめ、そこに登場人物―道子―がやってきて、一方が「かみうさぎさわはし」であることを知り、ならば、もう一方は「しもうさぎさわはし」なのだろうと推測する、という、ただそれだけのことで充実した場面が立ち上がるというようなことに、いちいち驚かされるという作品。)
「おやじキャンプ飯」は、おやじ(近藤芳正)が、たった一人でキャンプ場で生活をしているところが、ただ、延々と映し出される。そこに、キャンプ場の他の客との、最低限の接触、あるいは接触にも至らないちょっとした相互影響、のようなものが描かれる。まずは、ただそれだけ。
一つ、物語的な仕掛けとして、そのおやじには娘がいて、彼女は宇宙飛行士で、今、宇宙ステーションに滞在していて、その娘と、なぜかスマホのテレビ電話で毎晩交信している、という設定がある。娘は父のことを気にかけ、心配している様子だが、おやじは無愛想で、ろくに返事もしない。この設定により、(数少ない例外を除き)ほぼキャンプ場の外に出ることのないこの作品に、空(宇宙)に向かう志向性を持つ、物理的空間とはまた別の空間的な広がりが生まれる。
最初は、他の客との最低限の接触をするのみだが、話が進むに従って、他者(この他者たちもまた、それぞれに孤独な人である)との行きがかり上のかかわりが、少しずつ深いものになっていく。その過程で、気楽なキャンプ暮らしだと思われたおやじだが、週に一度、林業の現場でバイトをして、そこで得たお金で生活しているらしいことが分かってくる。つまりおやじのキヤンプ場でのキャンプ生活は、レジャーの類いではなく、彼は半ばホームレスとしてそこで暮らしているようなのだ。
すっかり世捨て人のようなおやじを、なんとかか細く俗世と結びつけているのが、何かと父を気にかけている、「お父さん大好き」な感じの宇宙飛行士の娘だろう。とはいえこの娘は、宇宙飛行士として宇宙に存在しているという設定からしても、何よりあまりに「お父さん大好き」感が出過ぎているということからも、おやじにとって都合の良すぎる娘なので、だんだん、この娘はおやじの願望的な妄想なのではないかと思えてくる。
(『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の、ごみ収集の男の偽の記憶の中にだけ存在する「娘」のように。)
最終話で、宇宙ステーションから「降りてきた」娘が、おやじのキャンプ場を訪ね、二人でキャンプをする。この最終話があまりにも幸福すぎるので、もうこの「娘」は完全におやじの願望的な妄想に違いないとしか思えなくなる。
(作中には「娘」が妄想であるかのように匂わせる描写は一切なく、おそらく作り手の側にはそのような意図はないと思われるが、それでも、そうとしか思えなくなってくる。)
中華料理店の店主だったが、今では店をたたみ、世を捨てたようにキャンプ場で孤独に生きるこのおやじが、幸福な妄想と共に生き、幸福な妄想を傍に死んでいくとしたら、こんなに幸福なことがあるだろうかと思い(いや、別におやじの死が匂わされることもまったくないのだが)、幸福感のあまり泣いてしまった。
(追記。第一話でおやじは、母と娘の二人だけでキャンプ場にやってきて何かと戸惑っている初心者キャンパーの手助けをするのだが、この母はシングルマザーというわけではなく、夫と喧嘩して娘と二人で衝動的に家出したきた感じで、だからキャンプの準備も十分ではない。この母娘が、孤独なおやじとネガポジの関係になっているように見える。この母は、夫と決別するのではなく、キャンプができたことで一定の満足を得たようで、翌朝いそいそと夫の元へ帰っていく。おやじは不在の夫の穴を埋め、いっとき擬似家族が成立するが、二人が去った後のおやじに、妻と娘の「不在」をいっそう強く感じさせる。そしてその直後に、唐突なように「宇宙飛行士の娘」との交信が始まる。そういう意味で、「娘」には最初から妄想的なにおいがあることはある。)
(追記。1話でおやじは、親切心から母と娘のキャンプの手助けをするが、この母娘とおやじの間には大きな断絶があり、「ふと心が通い合う」かのような描写は一切ない。母娘の求めに応じて、おやじは焚き火の火を起こし、炒飯を作る。おやじは手助けし、母娘は感謝を示すが、両者の関係は親切とそれに対する儀礼的感謝にとどまる。心の通い合いもなければ、軋轢や衝突もなく、必要以上には相手に踏み込まない儀礼的に良好な関係があるのみだ。端的にいえばよそよそしい。雑踏で「ハンカチ落としましたよ」「ああ、ありがとうございます」とすれ違う程度の無関係性が強調される。唯一、おやじの作った炒飯の美味しさを無邪気に称える娘との間に、料理を介した繋がりが一瞬だけ立ち上がる。1話と2話とで、世間や社会とおやじとの断絶・無関係性が描かれ(料理を介してのみ、一瞬だけ世間との接点が生じる)、3話以降で、世間や社会と断絶したかのような孤独な人とおやじとの関係・交流が描かれる。このような流れを考えても、6話でいきなり「宇宙から降りてくる」娘の存在に、あまり現実味は無い。逆にいえば、妄想としての強いリアリティを持つ。)