朝はやく。今日は野球場に霜がおりていない。黄土色の芝生。空の色もなんとなく、ぼやけた感じ。刺すような、ぎゅーっと身が縮むような寒さより、やや弛んだ中途半端な寒さの方が、かえって身にしみる。ふるえる朝。昨日あたりから、どうも咽が痛い。とくに寝起きのとき。龍角散のど飴、なめる。
卓上の蘭の花が、いまひとつ元気がない。しんなりしていまっている。
駅前の、段ボールを並べて売っている、落花生売りのおじさんが鼻唄を唄っていた。そのまわりをハトが何羽かちょこちょこ纏わりついている。何を唄っているのか聴こうとして、なにげなく近づいてみるのだけど、よく聞こえない。おじさん上機嫌そう、寒いのに。
花屋の店先のポインセチア(で、いいんだっけ ? )の、赤。ひと箱分の赤。街路樹の銀杏の、ごつごつとした原始的な形。銀行の看板と空の色のコントラスト。コンビニの前に、道を塞ぐように停まっている、配送の大型トラック。<昨日の深夜、NHKのBSでくだらねーバカ映画をやっていた。途中から見始めて、途中で寝てしまったから、誰がつくった、何という映画なのかは分らない。主演は、多分かなり若い頃の仲谷昇だと思う。いかにも60年代風のシュールなアート系の映画なんだけど、あまりにバカであまりにクサいので、面白がってつい見てしまった。かなり文学的なセリフやナレーション(文学的といっても、文学的(笑)って感じ)が多用されてたから、何か文学作品がもとになってるのかも。
仲谷昇の、いかにも現代人の無気力さを表現してみました、といわんばかりのわざとらしい無表情で淡々とした演技(絵にかいたような不条理的演技)。作っている方はおそらく知的で気が効いていて文学的だと思い込んでいるのだろうクッサイ台詞連発。(何なさってるの。夕日をみてるんだ。まあ、ロマンチックね。そう、たしかに夕日はロマンチックだ、だが、ぼくはいつも、夕日をみると何かやり場のない怒りが込み上げてくるんだ。まあ、恐い。そう、ぼくは恐い人間なんです、でも今日初めて、この夕日を、この赤い夕日をつくづく美しいと感じているのです。・・・ヒエーッ、こんな台詞がずっとつづく・・)
音楽の使い方なんかも酷くて、男が女にSMっぽいセックスを強要するシーンでは、バッハ風の(多分バッハだと思う)チェンバロやパイプオルガンの曲が流れ、時々パートカラーで病的な感じのする絵が挿入されるんだけど、そこでは、現代風の無調っぽい曲。男たちがアヤシイ酒場で集って、例のごとくクッサイ文学的な会話をするシーンでは、フラメンコ風の曲。と、まったくデタラメな選曲。特にセックスシーンのバックにバッハというセンスは最悪で、しかもその最中に男が女に、何か実存主義もどきの台詞を言ったりするのには、うわーっ、勘弁しくれって感じだ。(多分、アントニオーニなんかの映画を勘違いして受け取ってるんだと思うけど・・)
おそらくこういう感じが、この時代のアート系の若者にある程度支持された「 新しい感覚 」ってやつだったんだろう。いつの時代にも「 新感覚バカ 」というのはいるものなのだ。(今でいうと、さしずめリュック・べッソンとか岩井俊二とかがその代表でしょう)同じような時代に、同じような感覚の映画を作っていても、例えば吉田喜重の「 エロス+虐殺 」とか大島渚の「 東京戦争戦後秘話 」とかは、もっとちゃんとしていて、まあ、時代があまりに違うということの違和感はあるものの、きちんとした見ごたえがある。それは多分、きちんとものを考えて作っている人と、ただ時代の雰囲気や空気だけで作っている人とのちがいなのだろうと思う。>
夜の工事現場前を通りかかる。ショベルカーが闇の中から照明を浴びて浮かびあかっている。土を掘っている。黄色いヘルメットの人たちが集まって何か話している。遠くの方にかすかな光で見える、高く高く、夜空へ向かって伸びている、クレーン車の腕。
追伸。ロベール・ブレッソンが亡くなったらしい。とうとう・・・・。






●お知らせ。noteに、「歴史のなかの小さな場所/ジョナス・メカス『どこにもないところからの手紙』」をアップしました。ジョナス・メカスが故郷アルメニアの新聞に連載したエッセイをまとめた本の書評で、書いたのは2005年(「新潮」2006年1月号に掲載)。ずいぶん前ですが、自分で書いた書評のなかでは気に入っている方です。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n14a9f8e59fa0
●本の校閲をしていて、ぼくははじめて本を一冊通して書いたのだという気持ちになる。たとえて言えば、短編集ではなく、一冊で一つの作品である長編小説がはじめて書けた、という感じ。書いている時は(連載の前半はある程度の構想はあったのだが、特に後半は)、わりと場当たり的に、そのとき、そのときで、面白いと思ったアニメを取り上げて、それについて(その作品に向かって)書いていたのだけど、結果として、ずっと通してある一つの思考が持続的に展開されている感じの本になっている。
それは、「アニメ」というものが、持続的にぼくの関心の対象でありつづけてくれたから可能になったと言える。ただ、最近はあまりアニメを観なくなってしまっているのだが(『シュタインズゲート・ゼロ』も---惰性で最後まで観はしたけど---全然面白くなかったし)。
しかしそれだけに、こんなに延々つづくめんどうな理屈につき合ってくれる人がいるのだろうかという気持ちにもなる。


●お知らせ。来月、横浜で行われる『半島論』(金子遊、中里勇太 編)刊行記念のイベント第二弾に参加します。11月10日(土)、19時から、場所は、日ノ出町シャノアールというバー。出演は、前嵩西一馬さん(文化人類学・沖縄研究)、中村剛彦さん(詩人)とぼくで、司会を中里勇太さんにしていただきます。
日ノ出町シャノアール
シャノアール (Chat Noir) - 日ノ出町/バー [食べログ]


●『半島論』刊行記念イベントの第一弾は、10月27日に下北沢の本屋B&Bで行われます。
藤田直哉×佐々木友輔×金子遊 「半島のアートとサブカルチャー」 『半島論』(響文社)刊行記念 | 本屋 B&B
●それと、もう少しでVectionとしての最初のアウトプットが出せるはず。
●普段は地方で引きこもっている感じだが、11月、12月、1月と、人前でしゃべったり、人と話したりする予定がけっこう入っている。それに、年末には(九年ぶりの!)単著が出る予定なので、さらにその機会は増えると思う。しゃべるのは本当に苦手で、頭の普段使わないところを必死で使わなければならないのだけど、できるだけのことはするつもり(できるだけのことしかできないけど)なのでよろしくおねがいします。