制作について。いままで、どうしても少しズレている感じだったのが、少しだけ、とっかかりというか、入り口になりそうな感覚が掴めそうな気配が見えてきた。といっても、まだまだ気配とか雰囲気とか、そんな微弱なフィーリングにすぎないのだけど。
あまりに微弱なものなので、歩いていてちょっと躓いたり、テレビでも見てて大笑いとかしたはずみに、ぱっと、消えてしまってもおかしくない。しばらくは緊張感を持続して、手探りでやっていかなければ。まあ、飛躍的な進歩の兆し、とか、そういうんじゃ、全然ないんだけど。今、やろうとしている事が、ちょっとだけ噛み合ってきそう、という程度。
街では、いろんな場所にクリスマスツリーが目立ってきた。ぼくは個人的に、クリスマスには何の関心もないのだけど、電飾が至る所でチカチカしてるのは、単純にきれいだから好きです。本格的に冬になったんだなあ、って感じ。一年中これをやられてたら、鬱陶しいだろうけど。
(補遺)
18日の樫村晴香の論文の引用について。あれだけだとあまりに不十分で、樫村が、デカルト的な、私の意識の同一性を保障するための声、つまり、「 私は存在する 」と発語し、それを聴くことの出来た、私、は存在する、(我思う故に我あり)という図式を肯定しているかのように見えてしまうかもしれない。が、勿論それは違う。
経験的自我(発話する私)と超越論的自我(それを聴く私)との同一性を保障する「 声-意識(フォネー) 」。例えばデリダは有名な「 声と現象 」で、このようなデカルト的な図式を精密にしたものとしてのフッサールを批判している。
「 私は存在する 」という発話は、ひとつの表現であり、それは物質的基盤=支持体(この場合、声=空気)を必要とする。そして物質は私の外側に、私とは無関係に存在している。つまり「 声 」である「 私は存在する 」は、私から切り離されてある。だからその私の発話は、私の耳に届かない可能性もあるし、テープなどに録音されれば、私の死後(存在しない時)にも、私の声、である「 私は存在する 」が響くこともある。つまり、「 私は存在する 」という発話は、必ずしも私の存在を保障するものではない。と。
フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念は、このような思考を基盤としている。(表現の物質性)勿論、樫村もこのような言説を前提とする。しかし樫村は、それを哲学的=比喩的な言語ではなく、工学的=システマティックな言語で言おうとしている。
例えば、声、は、必ずしも自我の同一性を保障しない、ということを、分裂病者の自動思考を例として次のように記述する。<例えば「 汚れた者は償われなければならない 」という考えがくり返し生じるとき、それを産出する脳は自分自身の考えを理解できず、そのため彼は何者かに思考が操作されていると想像する。しかしそのとき外から見ると、彼は往々わずかに口を動かして、思考の中身=語鎖列を発声している。つまり被操作化しているのは、思考・変換過程の統一的全体でなく、出力側の口腔発声ユニットであり、しかも発声はそこで潜在的なものにとどまるため、脳は形成された言葉=音を結局自分の耳で聞き取れない。・・略・・つまりこれらの例では、通常の思考では駆動する、口から耳への「 頭の外側 」の「 閉じられた(空間的)ループ 」が存在しない。>(「 言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確認のメカニズム 」 )
我思う故に我あり=私が-話すのを-聞く、という閉じたループ=自我の内部に、すでに外側の世界=物質が媒介として入り込んでしまっている。だからこそ我々の精神-身体は様々なメディアに接続可能なのであり、また、様々なメディアとの接続なしに、『私』はありえない。(12/18の日記も参照して下さい。)