朝帰りの道。センター試験へと向かう大勢の人の流れと逆に進む。
見ること、聞くこと、考えること、等は、主観的な出来事ではなく、客観的(物質的)に"起こっている"ことだ。つまりそれは、脳の何らかの物質的な変化として測定しうる。脳の電気的、化学的な反応=変化。知覚や思考は、それだけで熱量を発するひとつの行為なのだ。しかしその熱量はあまりに微弱なので、他者にはほとんど影響を与えない。そしてその熱は、熱力学の第2法則によって、大気のなかに散らばって消えてしまう。時間は、不可逆であるから、2度ともとには戻らない。
知覚し、思考することは、発熱することでもある。しかし、時間の流れとともに、熱は散ってゆく。
みんなのうた 」で、「 北風小僧の寒太郎 」をやっている.これってずいぶん前から放送されていると思うけど、いつ頃からだろう。多くのひとが、意識しないうちにこの唄を知っている。♪きたかーぜーこぞうーのかんたろおー(かんたろおー)。堺正章の声もなんとなく若々しい。
イメージの物質性、あるいはイメージが物質として保存されるということ、あるいは、物質がそのままイメージとなる、ということ。
ひとつのイメージをつくること。これは誰にでもできることだ。そしてそのイメージを、誰か他人に示すこと。これも誰にでもできる。そして、その示されたイメージに、誰かが、もうひとつ別のイメージを付け加えること。そのふたつを突き合わせて、それらについて考えること。話し合うこと。美術というのは、そのようなシンプルな行為としてしかありえない。というか、そうでなければ意味がない。
「 ゴタールのマリア 」(1984年)を観る。この頃のミリアム・ルーセルは本当に信じられないくらい美しい。この「 顔 」のイメージを保存している、というだけでこの作品は十分に価値のあるものだ。ゴダールは、この顔を創造したのではなく、発見したのだ。おそらくアーティストにとって、発見は、創造よりも重要なことなのだ。この「 顔 」を見よ !