道の両側は工事中で、背の高い鉄の壁が目隠しとして建っている。駅からまっすぐにつづく道に並んでいる街灯の明りが、その両側の壁に反射していて、その、ぼわっと明るいオレンジ色の光の玉が、ずっと先までつづいて見える。大きな壁に囲まれた道を歩く人たちが、ぽつんぽつんと点在している。ぼくもそのなかの一人。夜の中を移動する身体。後ろからヘリコプターの音がして、頭上を通り抜ける。雲が厚いので、音だけ。
階段を昇って下を見ると、工事現場の露出した土が、その脇にある道路の灯りで赤く照らされている。労働時間はもう終わっているらしく、その広い敷地には誰もいない。階段を昇ときに感じる、自分の身体の重み。立ち止って、振り返り、もう一度ただっ広い工事現場を見る。その脇の道路を走る車のライトが、川の流れのように流れてゆく。
自分の身体の重さを振り払うように、自分の重さから、ふっと、抜け出てしまうためであるかのように、階段を思いっきり駈け昇る。
階段の上。街灯の光で浮きあがる生け垣の植物は、異様な、ゴツゴツとしてやけにスジばった茎を、不器用な形でのばしていて、まるで骨を繋ぎあわせてつくったみたいだ。
もっと繊細で、もっと自由で、そしてもっと強くあるためには、より小さく、より少なく、より貧しく、あってよいのではないだろうか。ささやかなもののもつ驚くほどの強靱さを感じるためには、もっと身軽であることが必要だ。
余計なものは削ぎ落とし、自分の身体を粉々に砕いて、たくさんの小さな粒のようなものにすること。風で運ばれる、砂や塵や花粉のようなものになること。
夜中じゅう音楽を聴いていて、朝方窓をあける。冷たい朝の空気が入ってくる。肌に当たる冷気。やはりぼくの身体は、重さや表面積をもってしまっている。そこからは逃げられない。
追記。『ぼくは昨日の日記で神代辰己の「 女地獄・森は濡れた 」について、神代はこの映画で一体何をやろうとしたのかよく分らない、というような言い方をしてしまっている。だけど、こういう評価の仕方は多分間違っている。
作家は、何かをやりたくて作品を作るのではない。ある仕掛けを設定して、そこに様々な、人物やら出来事やら事物やらを、投入し、横断させ、交錯させて、そこで一体何があらわれるのかを、実験するために、作品をつくるのだ。神代はきっと自分の作品の土壌に、サドを接続したらどうなるのか試したのだろう。そしてそれに失敗した、ということ。
(作家は作品を完璧にコントロールすることは出来ないし、また、してはならないのだ。自らのつくりだすイメージについて、責任はもたなければならないが、イメージの支配者であってはいけない。)
実験的な作品に対して、アーチストのひとりよがりだ、みたいなことを言う人がいるけど、そういう人は、他人からサービスされたり、手取り足取り教えてもらったりしないと、面白がったり、気持ちよくなったり、出来ないような人なのだろうと思う。わざわざそんな人に観てもらう必要なんか少しもない。出来合いのものだけで満足してりゃあいいんだ。』(おいおい、一体、何に対してそんなに苛立っているのだ、ぼくは・・・。)