朝からの雨は昼過ぎにはあがっていた。昨日、夜中遅くまで起きていたのに、朝はやく目が覚めてしまう。朝のうちに洗濯をすませた。
神代辰己「 女地獄・森は濡れた 」(1973年、にっかつ)を観る。うーん、これはイマイチかなあ。
冒頭、山のなかに一人でぽつんと居る伊佐山ひろ子(キアロスタミばりの超ロングショット)が、だんだんと密室に追い込まれてゆくまでの過程の描写はは、ちょっと神代っぽくないくらい端正な演出で面白いのだけど、話が本格的にサド的な展開に入ってゆくと、どうもなんか、急激につまらなくなってゆく。(一応、マルキ・ド・サドの「 ジャスチーヌ 」が原作になってる。)日活ロマンポルノという枠でつくられているのだから、サド的な酒池肉林の描写を豪勢に展開できるほどの予算も時間もないことは、始めから分かっている。でも、これはあまりにも工夫が無さ過ぎ。
神代的な、不思議にルーズな空間処理や、軟体動物みたいな、というか蛞蝓がはっているような、触覚的で流動的な性描写と、サド的な、きっちりとした論理的な空間、身体のソリッドな物質性を際だだせるような性描写とは、基本的に相容れないのだろうか。神代的な捉えどころのない登場人物である山谷初男が、権力や正義ヤ欲望や快楽について、いくら論理的な演説をしたりしても、すこしも説得力がない。(とってつけたような感じ)表現と内容が全く噛み合っていないから、描写も淡白で安易。サド的な作品世界というのは、論理的な人物によってでなければ成り立たない、ということが、この映画を観ると逆説的によく理解できる。
ただ、中川梨絵の演じる夫人のキャラクターはとても興味深い。セリフごとに、声の高さ、調子、語彙、イントネーション、がコロコロ変化し、山奥に隠遁している麗夫人という、始めから現実感の希薄なキャラクターを一層捉えがたいものにしている。この人物は言っている事にも一貫性がなく、どこまで本当で、どこからが嘘なのか分らず、というか、本当と嘘という区別が意味をもたない、ペルソナ=人格が全く成り立たない、壁に映った影=反映そのもののような表層的人物。ちょっと鈴木清順の「 ツィゴイネルワイゼン 」なんかを思い出させるような面白い人物。だけど、ちっともサド的な人物ではない。
神代はこの映画で一体何をやろうとしたのだろうか。サドの小説というのは、基本的に、観念的=論理的な演説と、具体的=即物的な性描写で成り立っていると思うのだけど、神代辰己が、それらのものに本気で興味があるとはどうしても思えない。むしろ、中途半端な観念的枠組みが、神代特有の自由な運動性やうねうねとした触覚性を殺してしまっているのではないか。
夜になって、またぱらぱらと小雨が降りだした。終電に間に合うように早足で急ぐ人たちの足音が、コツ、コツ、コツ、といくつも重なって響く。顔に冷たい雨が当たる。傘をさしている人と、さしていない人とが半々くらい、という程度の雨。


朝からの雨は昼過ぎにはあがっていた。昨日、夜中遅くまで起きていたのに、朝はやく目が覚めてしまう。朝のうちに洗濯をすませた。
神代辰己「 女地獄・森は濡れた 」(1973年、にっかつ)を観る。うーん、これはイマイチかなあ。
冒頭、山のなかに一人でぽつんと居る伊佐山ひろ子(キアロスタミばりの超ロングショット)が、だんだんと密室に追い込まれてゆくまでの過程の描写はは、ちょっと神代っぽくないくらい端正な演出で面白いのだけど、話が本格的にサド的な展開に入ってゆくと、どうもなんか、急激につまらなくなってゆく。(一応、マルキ・ド・サドの「 ジャスチーヌ 」が原作になってる。)日活ロマンポルノという枠でつくられているのだから、サド的な酒池肉林の描写を豪勢に展開できるほどの予算も時間もないことは、始めから分かっている。でも、これはあまりにも工夫が無さ過ぎ。
神代的な、不思議にルーズな空間処理や、軟体動物みたいな、というか蛞蝓がはっているような、触覚的で流動的な性描写と、サド的な、きっちりとした論理的な空間、身体のソリッドな物質性を際だだせるような性描写とは、基本的に相容れないのだろうか。神代的な捉えどころのない登場人物である山谷初男が、権力や正義ヤ欲望や快楽について、いくら論理的な演説をしたりしても、すこしも説得力がない。(とってつけたような感じ)表現と内容が全く噛み合っていないから、描写も淡白で安易。サド的な作品世界というのは、論理的な人物によってでなければ成り立たない、ということが、この映画を観ると逆説的によく理解できる。
ただ、中川梨絵の演じる夫人のキャラクターはとても興味深い。セリフごとに、声の高さ、調子、語彙、イントネーション、がコロコロ変化し、山奥に隠遁している麗夫人という、始めから現実感の希薄なキャラクターを一層捉えがたいものにしている。この人物は言っている事にも一貫性がなく、どこまで本当で、どこからが嘘なのか分らず、というか、本当と嘘という区別が意味をもたない、ペルソナ=人格が全く成り立たない、壁に映った影=反映そのもののような表層的人物。ちょっと鈴木清順の「 ツィゴイネルワイゼン 」なんかを思い出させるような面白い人物。だけど、ちっともサド的な人物ではない。
神代はこの映画で一体何をやろうとしたのだろうか。サドの小説というのは、基本的に、観念的=論理的な演説と、具体的=即物的な性描写で成り立っていると思うのだけど、神代辰己が、それらのものに本気で興味があるとはどうしても思えない。むしろ、中途半端な観念的枠組みが、神代特有の自由な運動性やうねうねとした触覚性を殺してしまっているのではないか。
夜になって、またぱらぱらと小雨が降りだした。終電に間に合うように早足で急ぐ人たちの足音が、コツ、コツ、コツ、といくつも重なって響く。顔に冷たい雨が当たる。傘をさしている人と、さしていない人とが半々くらい、という程度の雨。


朝からの雨は昼過ぎにはあがっていた。昨日、夜中遅くまで起きていたのに、朝はやく目が覚めてしまう。朝のうちに洗濯をすませた。
神代辰己「 女地獄・森は濡れた 」(1973年、にっかつ)を観る。うーん、これはイマイチかなあ。
冒頭、山のなかに一人でぽつんと居る伊佐山ひろ子(キアロスタミばりの超ロングショット)が、だんだんと密室に追い込まれてゆくまでの過程の描写はは、ちょっと神代っぽくないくらい端正な演出で面白いのだけど、話が本格的にサド的な展開に入ってゆくと、どうもなんか、急激につまらなくなってゆく。(一応、マルキ・ド・サドの「 ジャスチーヌ 」が原作になってる。)日活ロマンポルノという枠でつくられているのだから、サド的な酒池肉林の描写を豪勢に展開できるほどの予算も時間もないことは、始めから分かっている。でも、これはあまりにも工夫が無さ過ぎ。
神代的な、不思議にルーズな空間処理や、軟体動物みたいな、というか蛞蝓がはっているような、触覚的で流動的な性描写と、サド的な、きっちりとした論理的な空間、身体のソリッドな物質性を際だだせるような性描写とは、基本的に相容れないのだろうか。神代的な捉えどころのない登場人物である山谷初男が、権力や正義ヤ欲望や快楽について、いくら論理的な演説をしたりしても、すこしも説得力がない。(とってつけたような感じ)表現と内容が全く噛み合っていないから、描写も淡白で安易。サド的な作品世界というのは、論理的な人物によってでなければ成り立たない、ということが、この映画を観ると逆説的によく理解できる。
ただ、中川梨絵の演じる夫人のキャラクターはとても興味深い。セリフごとに、声の高さ、調子、語彙、イントネーション、がコロコロ変化し、山奥に隠遁している麗夫人という、始めから現実感の希薄なキャラクターを一層捉えがたいものにしている。この人物は言っている事にも一貫性がなく、どこまで本当で、どこからが嘘なのか分らず、というか、本当と嘘という区別が意味をもたない、ペルソナ=人格が全く成り立たない、壁に映った影=反映そのもののような表層的人物。ちょっと鈴木清順の「 ツィゴイネルワイゼン 」なんかを思い出させるような面白い人物。だけど、ちっともサド的な人物ではない。
神代はこの映画で一体何をやろうとしたのだろうか。サドの小説というのは、基本的に、観念的=論理的な演説と、具体的=即物的な性描写で成り立っていると思うのだけど、神代辰己が、それらのものに本気で興味があるとはどうしても思えない。むしろ、中途半端な観念的枠組みが、神代特有の自由な運動性やうねうねとした触覚性を殺してしまっているのではないか。
夜になって、またぱらぱらと小雨が降りだした。終電に間に合うように早足で急ぐ人たちの足音が、コツ、コツ、コツ、といくつも重なって響く。顔に冷たい雨が当たる。傘をさしている人と、さしていない人とが半々くらい、という程度の雨。