橋本治『蝶のゆくえ』

●実家で年明けを迎えるなんていうのは何年ぶりかのことで、ましてや、紅白歌合戦をはじめから最後まで通して観るなんていうことは、小学生の時以来なのではないか。画面の隅のほうにちょこちょこと映っていたので、今年は華原朋美も出ているのか、と思ったら、倉木麻衣だったりした。
●去年の最後の日、12月31日に読んだ橋本治『蝶のゆくえ』は素晴らしかった。年末恒例の、今年の本ベスト3とかベスト10とかのなかに、このタイトルがほとんどみられなかったのは、全く不可解だとしか言いようが無い。あんまり素晴らしかったので以前に出た『生きる歓び』を引っぱり出し、何編か読み返してみた。こちらも素晴らしいのだが、『生きる歓び』に収録されている小説はウェルメイドの形式に落とし込むこと(「芸」)が強く意識されているようにみえるのに対し、『蝶のゆくえ』は橋本治的な論理性(分析力)の行使がより徹底して行われていて、さらに突き抜けたものになっているように思う。
●批評と言うのか評論と言うのか、橋本治の小説以外の著作には決まってサービスによる冗長性のようなものがある。ここで言うサービスとは、著者にとっては自明なことではあるが、読者にとっては必ずしもそうではないだろうから、ちゃんと段取りを追って説明をしておく、というような部分であり、だからこの冗長性という言い方に批判的な含みは全くなく、むしろ何かを人に伝えようとする時の丁寧さや誠実さのあらわれだと言える。だが、『蝶のゆくえ』に納められた小説の記述にあるのは、橋本氏自身が納得するための過不足のない思考の流れであり、論理の組み立てのみであるように思える。これらの小説は、自らの思考を読者に伝えるために書かれたのでも、あるいは「芸」の披露として書かれたのでもなく、ある(橋本氏にとってどうしても無視出来ないような引っかかりのある)事柄に対して橋本氏自身が納得するためにこそ書かれているように思える。だから、これらの小説を構築し支えているのは、論理的な力であり、分析する力である。「なぜ、こういうことになってしまうのか」あるいは「こういう状況に置かれた人は、どのように感じ、どのように行動するのだろうか」「こういう状況=関係のなかにある人の「生」というのは、どのような形をしているのだろうか」ということが、あくまでも論理的に分析され、構築される。『生きる歓び』に納められた小説では、このように分析され構築されたある「生の形」を、小説としてのウェルメイドの形と重ね合わせてゆく芸が意識されているように思うが、『蝶のゆくえ』においては、芸(型)であるよりも、徹底して論理的であることが目指されているようにみえる。だから一見、この本における橋本氏の記述は神の視点に立っているかのような印象を与えもするし、突き放した容赦のないもののようにも感じられるかもしれない。例えば、虐待の末に死んでしまう子供と、子供を殺してしまう母親を描いた『ふらんだーすの犬』の記述は、まるでブレッソンの映画のように淡々と進行し、容赦がない。ここで橋本氏は、ある関係(ある人物とその人物の生きる時代や環境との関係、あるいは人物と人物との関係)を徹底して冷静に見つめ、このように物事が進行していってしまったのは、このような状況下で、このような関係のなかで必然的なものであった、とも読めるように記述している。だからもしかすると、この小説は理科の実験の詳細なレポートのようにも読めてしまうかもしれない。徹底して論理的な分析は、悲劇という「形式」の普遍性を露呈させるようにも見えるかもしれない。しかし、この小説を丁寧に読んでいけば、もう一方で(そのような書き方は一切されていないにも関わらず)橋本氏が、殺される子供の絶対的な受動性の側からこの小説を発想しているのが分かるのではないかと思う。(例えば、冒頭のシーンや、ラストの記述などから。)恐らくこの小説は、殺されてしまった子供の側から母親に向けられた「なぜ」という問いかけによって生み出され、構築されているのだ。(「なぜ」という問いの強さによって、論理の徹底性が支えられている。)ある特定の関係のなかで絶対的に受動でしかない子供の、「なぜ」という問いかけに答え得るのは、母親がそのように行動するしかなかった特定の状況=関係の、徹底して論理的な分析であり解明であるしかないだろう。なぜ母親はそのように行動したのか(するしかなかったのか)、を、論理的に納得できるようなかたちで構築する(し直す)こと。そのことによってのみ、絶対的な受動性のなかで殺されてしまった子供の「生」が肯定されるのだ、と。この小説の貴重さは、その点にこそある。だから、この小説の、神の視点のごとき、あるいは実験のレポートのような、世界の外側から全てを把握しているような記述は、世界の内部(関係の内部)において全く無力で受動的であるしかない子供の位置の反転であり、反転によってぴったりと重なり合うものだ。
●橋本氏の小説にはいつも、登場人物の具体的な年齢が書込まれる。一般的な「若者」は登場せず、具体的に16歳だったり26歳だったりする。あるいは、25歳であることと26歳であることの微妙な違いが詳細に追求されたりする(『ごはん』)。これは、橋本氏の小説が、常に(歴史的に)具体的な時間と場所を舞台としていること、いつでもないいつか、どこでもないどこか、という無時間的な場所を舞台としないことと関係があるだろう。橋本氏の小説はいつも、具体的ないつか、どこかで、具体的な誰かと誰かとの関係が追求されている。具体的なある時代との関係、具体的なある場所との関係、具体的なある他者との関係においてあらわれる、具体的なある人物が描かれる。だが、その人物は特別な特徴を持った(その時代や場所を代表するような)、特異的な存在ではなく、どこにでもいる誰かでもある。つまり、固有名であると当時に無名であるような存在である。橋本氏の主な興味は関係にこそあり、だからある人物を描くことは、その人物の置かれた状況を描くこととそのまま重なるだろう。(人物は決して自律し得ず、偶然の絶対性に晒されている。)橋本氏の優れた分析力は、この点において最も強い力を発揮するだろう。しかし、橋本氏の小説以外の著作と小説とを分けているのは、小説における登場人物が、必ずしもこの鋭い「分析力」によって把捉される状況によっては捉え切れないという点だろう。時代や場所や他者たちとの関係によって位置づけられるある具体的な地点こそが、ある人物の固有性であるのだから、この関係こそが執拗に描き込まれるのだが、小説の最も重要な場面では、その人物が状況との関係においてある固有性からふっとずれてしまうように思える。それはどこか別の場所、どこでもない、あるいは普遍的な場所へと至るのではなく、たんにふっとずれるだけなのだが。おそらくその「ふっとずれる」瞬間こそがある人物が、まさに「他でもないその人物」として立ち上がる瞬間であり、橋本氏にとって「生きる歓び」(生の固有性、あるいは孤独)として肯定される瞬間なのではないだろうか。(例えば『白菜』などにおいて。)そして、この瞬間を出現させるためにこそ、執拗な分析的、論理的な構築が行われるのだと思う。(この小説集のなかで唯一『金魚』だけが、分析的な力が勝ってしまって、小説である瞬間が弱いように思えた。)
●『蝶のゆくえ』に収録されている6編の小説のうち5編は、2003〜4年に発表されたものが発表順に並べられているのだが、ただ『ほおずき』だけは1994年に発表されていて、本の真ん中とも言える3番目に収録されている。この小説が他と比べて特異に感じられるのは、この1編だけが、橋本氏一流の論理性や分析力よりも、それとは別の力の作用が強く働いているように思えるからだ。この小説では、他者への絶対的な依存としての「愛」が、そしてその肯定が、語られており、(19歳の女性二人の話であるにも関わらず)この小説を読むと、このなかに、いわば「幼児となった橋本氏が裸のままで泣いている姿」が露呈されているように思えてならないのだ。そして、この1編こそが、この本に納められた全ての小説のキーになるトーンを決定しているように思う。つまり、「私」を支えているのは「他者への絶対的な依存としての愛」であり、だからこそ、それとは真逆のものである、明快な論理性や分析力が強く要請されているのだ、と。