『20世紀文化の臨界』のキーファーについての対話

細かい雨。強くなったり弱くなったり。
濡れて水をたっぷりと含んだ緑の、重ったるい色。濡れた土のにおい。枯れかけたピンク色の花が水分を吸い込んで、しんなりと下を向いて垂れ下がる。
NHK『アフリカ、ポレポレ』。薬師丸ひろ子は、だんだんと藤田弓子化への道を突き進んでいるようにみえるのだった。
浅田彰『20世紀文化の臨界』のキーファーについての対話をぱらぱら読む。これは93年のセゾン美術館での展示と同時期に行われたもの。ここでの岡崎乾二郎の発言は冴えまくっていて、ほぼ全面的に同意してしまう。というか勉強になります。(多木浩二の発言に関しては、ぼくには全く理解できないのだが。)
当時、急速に世界の巨匠へと祭り上げられていったキーファーのこの日本での展覧会を、当然ぼくも観ている訳だけど、当時のぼくの印象としては『笑ってしまう』という感じだった。これはバカにした笑いとか嘲笑とかいったものでなくて、『ひやーっ、こんなことやっちゃってるよー』という半分あきれながらも驚きと好意と敬意を含んだ笑いで、こういうものを『崇高』だとか『歴史への考察、神話への回帰』だとか言って深刻な顔して観てる奴は馬鹿じゃねえの、という感じだった。(政治的なヤバさも、笑える要素の一つだった。)圧倒的な重厚さ、とかって、一体どこがだよっ、て感じ。偉大な芸術家なんかじゃなくて、アブないオタク的なドイツ野郎の作品でしょう。(でも当時のぼくの知っている限りの反応では「真剣に」ありがたがる人か、「真剣に」批判する人しかいなかったという印象だった。この時期に、こういう岡崎氏のようなクールな発言があったとは知らなかった。勉強不足でした。)
ごく軽薄な意味で面白がりながらも、一方で、作品がこんな風にパラノイアックに止めどなく肥大化してゆくということに対しては、やはり方向性としては間違っているのではないか、とも感じていた。デカくて重くて壊れ易い作品を、ドイツから持ってくるだけで莫大な費用がかかった、とも聞いたし。それだけの金があれば、何人もの無名の、若手のアーティストが作品を作ったり発表したりできるのに・・・。それがたった一人の『英雄的で崇高な』芸術家に吸い取られてしまうというのは、いかがなものか。
話は変わるけど、大画面ということで言えば、ポロックやニューマンのような大画面の戦後アメリカのフォーマリズム絵画に、今観ても面白いところがあるとすれば、それはそこに、セザンヌからアルトーへとはしっているようなもの、デリダが『基底材を猛り狂わせる』で問題にしていたようなもの、つまり本来なら表象の舞台として、地として、透明な器のように機能しなければならない基底材が、たんなる物質として、即物的に、暴力的に、その物質的な表情を露呈し、そのことによって表象機能が破壊されてしまい、その崩壊を目の当たりにし、それ受け入れながらも、ぎりぎりのところで何とか表現を成立させようという、近代芸術の最もシリアスで気違いじみた問題のあらわれを、遠いこだまのように微かに響かせている、ということに他ならないと思う。もし、アメリカ型フォーマリズムから、アルトー的な狂気を抜き取ってしまったなら、それはたんにインテリ・ニューヨーカーたちのお芸術遊び、ということにしかならない。(実際、ジョーンズとかステラとかっていうのは、そんなもんでしかないと思う。)そしてそのような、気違いじみた、暴力的な、『物質性』の問題を、もっと軽やかに、別の方向へと(別のメディアへと)接続させる可能性を開いたのは、ラウシェンバーグという人なのではないか、とぼくは最近ちらっと思ったりしている。だから岡崎氏が「様式においてはボイスも、キーファーも、ラウシェンバーグの亜流でしかない」と発言しているのにはドキッとしたし、とても鋭いと思った。
ところでキーファーにとっての物質性は、そのようなアルトー的(セザンヌラウシェンバーグ的)なシリアスな物質性とは根本的に違っているように感じる。彼においては物質の使用法が既にアイロニカルというか、薄っぺらなアイロニーや神話的な形象の幼児的なバカバカしさを、その圧倒的な物質性でもって裏から支えている訳で、物質は表象を裏切るのではなく、表象のウソくささやバカらしさを、重厚な物質がなんとか支えている(誤摩化している)、ということなのだ。つまりは、こけおどし、ということで、そのようにこけおどしをヌケヌケとしかも本気でやってしまうところがキーファーの面白いところでもあるのだった。
それでも、キーファーの作品の物質性は、やはりある圧倒的な力をもっている、という浅田氏の発言に対して、岡崎氏は全くクールに、『焦げたり煤けたりした黒や鉛っていうのはそうですねえ、それを使えば誰でも現代美術ふうになって素材ですね。』と答える。それに加え、彼の素材の使い方は、様々な現代美術の達成から、その効果だけを手際よく盗んできたようなところがあって、アカデミックな現代美術という感がある、とも言っている。
どこまでも鋭い岡崎乾二郎氏の言葉を借りれば、キーファーは『そのずばぬけて時代錯誤的なドン・キホーテみたいな大げさな滑稽さ』が面白い作家であって、映画監督て言えば、ヘルツォークみたいな人で、決してジーバーベルグではないのだった。