ジョン・カサヴェテス『ハズバンズ』

昨日、ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』を観た。これは一体何なのだ。この映画の訳の分らなさはほとんどホークスの『赤ちゃん教育』の域に達しているようにさえ思う。ここでは一定何が起こっているのか。何をどう考えて、それをどのように組み合わせれば、こんなものが出来てしまうのか。カサヴェテスの映画を観たのは勿論初めてじゃないし、かなりいろいろ観ているはずで、カサヴェテスについてはある程度は分かっていると思っていたのは甘いというか、あまりに傲慢な思い込みにすぎなかったのだ。全く理解する糸口さえ見いだせないものを目の前にしたとき、人はそれを拒絶するか、とりあえずは全面的に受け入れて、全くの受動的な存在になってそれをただ感受することに徹するかしかないだろう。なんだなんだこれはなんなんだ、ととまどいながら必死に画面を見つめ音を聞きその流れについてゆこうとすることで精一杯でいっぱいいっぱい。そういえばカサヴェテスというのはもともと訳の分らない奴だったのだ。『ビック・トラブル』には目がテンになるしかなかったし、『オープニング・ナイト』だってよく分らないし、『ラヴ・ストリームス』にしたところで・・・、とか冷静になって考えたのは帰りの電車のなかでのことで、観ている間はそんな余裕はなかった。なにかとんでもないことが画面上でバシバシと起こっているようにも思うのだが、それが何なのかを掴む手立てはあたえられていない。
『ハズバンズ』は物語としてはかなり分り易い外枠を持っている。4人組の仲間だった親友のうちの1人の死によって、ほかの3人は自分達の現在の生活がいつの間にか酷く詰まらないものになってしまっていることに気づく。現実の生活から逃避するように、3人はまる2日間かけて飲みつづけ、酔っ払いってはハメを外す。それでも一旦は現実の生活へ戻ってゆこうと決意するのだが、彼らにとってはもはや「生活」は耐えられないものになってしまっている。そこで彼らは、今度はアメリカを脱出してイギリスへと向かう。豪雨のロンドンについた3人は、睡眠もそこそこに、カジノへ行って大儲けをし、それぞれが女を引っ掛けてホテルへ戻る。そして・・・。親友の死によって、自分達の生活が空虚で無意味なものになってしまっていることに気づき、何とか自分達の生きることの充実した意味を見つけだそうと、情けなくも滑稽に、あるいは人を傷つけるのも厭わない暴力的な利己主義によって、ジタバタと右往左往する。疎外された生活からの自己解放のための悲喜劇。生きていることの痛み。私はここにいる。でも一体何のために。そんな風に纏めてしまえば、こんなに分り易い話はない。でも、この映画はカサヴェテス自身がどう思っていようと、全然そんな風に出来てはいない。
登場人物たちは、自分達の感情や考えについていちいち口に出して言わなければ気がすまないかのように、セリフでそれを説明する。でもそれはたんに言葉であって、実際に画面に映っている、わめき散らしては暴れまくり、歌を歌い出すかと思えば、トイレで嘔吐したり、電話を壊したりしている彼らの行動とは何の関係もないように見える。「本当に感じた事」を歌うという例のあのバーでの歌のコンテストのシーンなどを観れば明らかだけど、彼らはただ純粋な狂人のように、歌い、わめき、人を非難し、裸になろうとしたりしているだけであって、それらの行為と、友人の死や疎外された生活からの自己解放とは何の関係も見いだせない。ぼくはこのシーンは素晴らしいと思うけど、何で素晴らしいのかは全く分らない。ただただ混乱をきわめている事の成りゆきを唖然として見つめているうちに、あまりのことにシラけて引いてしまい(このシーンは『こわれゆく女』のスパゲティのシーンとは違って、編集はかなり単調だ)、それでも彼らはまだ騒いでは歌いつづけているので、それがあるとき何故か名指し難い感動のようなものにかわってしまい、うわー、こりゃスゲーや、と呟いているのだった。
カサヴェテスの映画におけるカメラの位置、というのもよく分らない。一般には、彼はカメラを俳優からやや離れた場所に置き、場面全体に均等に照明を当て、なるだけ俳優の動きを制約しないような状況をつくって、カメラはズーム・レンズで俳優の動きを追う、ということになっていて、つまり彼はいい絵を撮ろうなんていう考えからは全く自由で、常に俳優の演技が優先されるということだ。でも、簡単にそう決めてしまって良いのか。カサヴェテスの映画には時々、全てが計算ずくとしか思えない、とんでもなくピタッと決まっているショットがいきなりあらわれたりするのだ。
カジノでそれぞれ女を引っ掛けた3人がホテルの部屋へと帰ってくるシーン。カメラは部屋の奥、2つならんだベッドの、奥のベッドの足元の辺りから出入り口の方に向いて置かれている。このショットが始まったばかりの時は、このカメラの位置がそれほど重要なものだとは思えないのだけど、いかにも無造作にそこに置かれたという感じのカメラが、多少の横移動と僅かなパンだけで、6人が部屋に入ってくるところから、気まずい沈黙が流れ、ルームサービスを頼み、一人がベッドに横たわって気分が悪そうにしているのを、女が背中をマッサージするなどの行為が描かれ、その後それぞれが女をつれて自分の部屋へ戻り、その部屋にはピーター・フォークと中国娘の2人だけが残る、までのかなり長いシーンを、ワンショットで、まるで俳優の立ち位置を何センチの単位で予め計算していたかのような完璧な構図のもとに捉えてしまう。まさかカサヴェテスの映画で、しかもまだ初期の混乱を極めていてアホっぽいズームなども多用されているこの『ハズバンズ』にこんな完璧な長回しが紛れ込んでいるなんて。
この後の、ジョン・カサヴェテスとデカい女、ピーター・フォークと中国娘それぞれの一夜とその翌朝が描かれるのだけど、この一連のシークエンスが、『ハズバンズ』の最もよく分らなくて、最も魅力的なシーンのように思われる。カサヴェテスは全く不可解な人格となって女に襲いかかるし、フォークは沈黙する中国娘に何でもいいから何か喋れと要求し、それでも沈黙のままの娘にキスをして、何だお前は、何も喋らず、ルームサービスではコカ・コーラを頼むくせに、キスするときは舌を入れるのか、と理不尽な怒りを爆発させ、娘は頬を真っ赤に染めて涙ぐむ。カメラはこの2人をまるでフォークの不器用な物腰のような不器用なズームを使って震えながら捉えている。これらのシーンのそれぞれの登場人物の内面や気持ちなど、ぼくには想像することもできないし、ましてや感情を理解することなんて全く出来ない。ぼくはただ、晴れた空に徐々に雲がかかってくるのを眺めるように、中国娘の頬がだんだんと赤くなってゆくのを息をつめて見ているだけだ。翌朝、土砂降りの路上に走り出てくる中国娘。彼女は中国語で何か意味不明のことをしきりに叫んでいる。後から続いて来たピーター・フォークは、雨に打たれながら彼女の傍らで所在無さげにただ突っ立っている。何が起こったのかは例によって全くわからないのだが、意味無く胸が張り裂けるようなシーンなのだった。
多分カサヴェテスという人は徹底的に外しまくる人なのだ。そしてその外しっぷりがあまりに堂々と徹底しているもんだから、いたたまれなさを通り越して、ある種の解消不可能な動揺を我々に与えてしまうのだ、ということにすれば、理解し易い気もする。しかし、理解することが、理解出来ないことよりマシなことだとは言い切ることは出来ない。