フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

(6/20から、引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。)

まるで「2度目のバス」のような「2度目の家族」の成立を、この映画はどのように示すのか。それは実に簡単なことだ。カアイと呼ばれている娘は、とよた真帆のことを「アキラちゃん」、三上博史のことを「ナガイさん」と呼んでいるのだが、それが「お母さん」「お父さん」へと変化することで「2度目の家族」の成立が示されるのだ。この、あまりの分り易さは感動的ですらある。しかしこれだと、3者が向き合うという「約束」によって成立するはずの「2度目の家族」が、子供を中心とした「子供の承認」による「家族」ということにすり変わってしまいはしないだろうか。それと、男は、「クソみたいな仕事だけど、俺には友達に対する責任がある」ということを口にするのだが、結局、男はこの友人たちに対する責任を放棄する(放棄させられる)ことによって、家族のもとに残ることになる訳だけど、ここで分らないのは、何故「家族」が成立するために、それ以外の人間との関係を全て断った(あらゆるメディアのスイッチをオフにした)抽象的な場所が必要とされるのか、ということなのだ。(もともと女は、娘と「2人だけ」で向き合って暮らす「約束」をして、この抽象的な場所へやって来たのだった。なぜ、「2人で」ではなくて「2人だけ」でなくてはならないのか。)この、青山氏の奇妙なまでの閉鎖性への指向=嗜好というのは何を意味するのだろうか。それはこの映画に関してだけではなくて、他の青山作品、例えば『シェイディーグローブ』や『ユリイカ』などに対するぼくの根本的な疑問とも繋がっている。(例えば、黒沢清の『ニンゲン合格』のあの「家」、様々な人々がやって来ては去ってゆくあの開放性とは全く違っている。)あと、もう1つ、メディアに関する扱い方なのだが、男がくり返し観ているビデオによる映像が、もはや失われてしまった家族の空虚なイメージであり、ほとんど偽の映像(それを撮影したのは男ではなく男の友人のTVディレクターだ)であるのに対して、女が直接的に(どのようなメディアも通さずに)観るヴィジョン=幻覚は、女をある方向へと確実に導く力強いものとして示されている訳だが、これだと、ある媒介を通してあらわれるものよりも、無媒介に直接的にあらわれるヴィジョンの方を明らかに優位としているようにみえてしまう。しかし、それこそ「現前の形而上学」とも言うべきもので、それはとても危険なことなのではないだろうか、と感じてしまうし、それこそ「映画(映像と音響のモンタージュ)による思考」を否定してしまうことにもなりかねないのではないかとも思うのだ。