フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

(引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。)

『月の砂漠』はとりあえずは、「家族」という関係をつくり直す物語だと言える。自然なもの、所与のものとしてある家族ではなくて、新たに「人工的」につくり直されるものとしての「家族」。その意味では明らかに『ユリイカ』との関連がみられるだろう。しかしここでは、役所広司のような人物が自らの「意志」によって制作しようとするのとは少し違っていて、第三者の介入によって、ほとんど偶発的に成立してしまう関係が示されている。

図式的に整理してみる。まず一方に、現代の都市に住み、資本主義的な構造のただ中にいて、それが強いてくる様々な状況に正確に対応することのみに追われている、三上博史が演じる人物がいる。あまりに多様化、多層化する状況に接しているので、ほとんど複数にバラけた統覚なき主体と化しているこの人物は、ふと立ち止って(立ち止ることを余儀なくされて)みると、自分が何をしてきたのかほとんど憶えていない、ほとんど上の空だったことに気付く。つまり複数の状況によって複数の自己へと断片化して砕け散った自己は、「記憶」(という超越的なもの)によって束ねられることさえも可能ではなくなり、自分の向かっている方向すらも分らないまま「上の空」で走っているのだ。(この人物からは『EM』の多重人格の少女からの微かなエコーが感じられる。)この人物の人格かが崩壊してしまわないのは、おそらく、会社を維持することと家族を維持することという、2つの「責任」を背負っているからだと言えるだろう。しかし既に家族は彼のもとを去っており、会社も危機を迎えて友人たちにも裏切られている。正確に対応すべき状況そのものが崩れてしまっていて、責任を果たすべき対象もなくなって、人格を束ねている力は既に消失していて、だから次第に彼の人格は(そして彼の周りの時空も)、歪んで、不定型に漂って流れ出してしまうことになるのだ。この映画の中盤以降、男は、酒に酔っていたり、クスリをやっていたり、左肩を銃で撃たれていたりで、ほとんどまともに立っていることが出来ず、危う気にヨロヨロと歩いたり、床や地面に突っ伏してばかりいるのが、そのことの最も見えやすいあらわれだと言える。そして映画自身のフォルムも、この男とともに混乱しはじめるのだ。

そして、もう一方に、とよた真帆が演じる女がいる。彼女は子供を連れて家を出ていて、アルコールに溺れたりなどもしているのだが、男とは違って、望んでいるもの、行くべき方向は常にはっきりしていて揺らぐことがない。男が、もはやなくなってしまったもの(関係)の残骸でしかないようなビデオテープの映像を繰り返してみることしか出来ないのに対して、女の前には望まなくても家族の亡霊(まぼろし)があらわれて、行く先を導いてくれるのだ。女は、子供と二人だけで「めんどくさいこともきちんとやる」ような関係を築き、そのなかで生きてゆくために、今はもう誰もいなくなった実家へと向かう。この映画において、田舎にある実家の空間は、都市空間が様々なメディアの交錯する立体的な空間として描かれているのに対して、意図的に閉ざされた、貧しくて、薄っぺらい、抽象的な空間として描かれる。(この家はだから、『シェイディー・グローブ』の「森」や『ユリイカ』の「家」のような、外部から切り離された架空の人工的な空間なのだ。だからこそ三上博史がここへ到着するためには、途中で携帯電話を捨てなければならなかったのだ。)この場所は、まるで舞台装置のように、家とその前の拡がりという一方方向への拡がりしかもっていない。(裏側のない、表側だけの空間)クレーンを用いた360度のパンも、この空間の閉ざされた狭さを強調するものなのだろう。そして時おり、まるでこの空間の不自然さを強調するように、キリキリと亀裂のようなノイズが被さるのだ。

一方に方向を見失って自ら混乱そのものと化して迷走する男がいて、もう一方に自分の求めるものへと突き進んでゆく女と子供がいる。互いを求めていながらも行き違って離れてゆくばかりの2つの流れが、第三者の偶発的な介入で嘘のように(しかし予定調和的に)結びつくのがこの映画なのだった。この3つめの流れをになう人物たちは、ちょっと、イカニモという感じの「J文学」にでも出てきそうなキャラクターだ。柏原収史が演じるキーチという人物は、資本主義社会の成功者である男の写真が印刷された大きな看板の下に住んでいるホームレスで、金持ちに身体を売っている男でもある。キーチは方向を見失った男を引きづり回して、男が「手に入れたとたんに無になってしまった」と言ったその「手に入れたもの」をさえ、決して「手に入れる」ことのできない人物たちの世界を見せつけ、その後、強引に家族のもとへと連れてゆく。結果として家族を結びつける触媒のように動くことになるこの人物は、例えば『シェイディー・グローブ』における「携帯電話」のように機能する、と言ってよいだろう。あるいは『ユリイカ』で、子供たちと役所広司を結び付ける「バスジャック犯」とか、『冷たい血』の鈴木一真とか。(ぼくには、この映画の出来がイマイチである原因の最も大きなものは、この媒介的な人物の造形や設定が甘かったからのように思えてしまったのだった。)この、天涯孤独で、たった一人で土の中から生れてきたようにもみえる人物も、実は「父親への激しい憎しみ」によって、「家族」に対する強いこだわりをもつ人物でもあるのだった。

(もう少しだけ、つづく。)