フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

バシフィコ横浜(フランス映画祭)で、青山真治の新作『月の砂漠』。今日はあまり時間がないので、取り急いで、ちょっとだけ。この映画が混乱していて、物語の語りが不器用にギクシャクしているとしたら、それは主演の三上博史が演じる人物像による。彼は、普通に統制のとれた人格を失っている。社員の前では冷酷な経営者であり、テレビカメラの前では自信満々の成功者であり、友人の前では家族を失って取り乱している男であり、一人でいる時には家族のビデオをだらしなく眺めているだけの男である。この人物が外に対して示す対応の仕方は、くるくるとめまぐるしく変化して、その基底となるべきひとつの人格(超越論的統覚)は見いだしがたい。しかし、勿論、彼は正常だ。その局面、局面に対して的確な対応をしているのだから。しかし逆に言えば彼は、ある局面に的確に反応する、ということ以外のことを何もしていないのだ。(記憶がない、上の空だ、というのはそういうことだろう。)映画の出だしの部分では、彼の見事なまでの状況への対応ぶり(分裂ぶり)が、ビデオ装置やテレビ放送などの複数のメディアを通してキビキビと手際よく示されるだろう。しかし、この絵にかいたようにヒューム的な人物である彼が、次第に、「的確に対応」すべき状況を失って、通常の社会生活の隙間(成功のすぐ近くに潜んでいる不幸)の時空、正常な対応に対して正常な反応が返ってくる訳ではない、彼の今までの生活空間からしたら異次元のような時空へと迷い込んでゆくにしたがって、彼はどのようにも対応することが出来ずにひたすら混乱して迷走をはじめ、それにあわせて映画の語りそのものも方向性を見失い、ギクシャクし、混乱して、時間が淀みはじめる。

この映画はどうみても成功しているとは言い難いようにみえる。これが『ユリイカ』と同じ監督の手によるものと信じ難いくらいに、流れは淀んでいて、演出は不器用で荒っぽくさえみえるし、主張は幼稚に空回りしてさえいる。しかしこのような混乱は、三上博史が演じているような人物を中心に据えた映画をつくろうとする時に必然的に現れてくる「混乱」であるはずなのだ。(むしろ非難されるべきだとしたら、混乱の度合いがこれではまだ足りない、中途半端に物語として整合性に頼ってしまっている、という点にあるだろう。)実は「混乱」と言っても、この映画における青山氏の「主張」はかなりシンプルで平易なものなのだ。しかしその平易な物語=主張は、決して滑らかに進行してすみやかに「結論」にまでは達することが出来ない。常に「物語を語る欲望」を口にする青山氏は、しかし実は物語=主張を器用に説得力をもって語ることが上手な監督ではない。(諏訪敦彦のように「聡明」な監督ではない。)むしろその映画(映像と音響)のあり方が、その物語=主張を裏切ったりしてしまうことがしばしばあるのだ。だから青山氏は、そう簡単に人を納得させるような「傑作」をつくってしまうような作家ではないと思う。そして、青山真治という作家の価値や現代性は、そのような「亀裂」そのものを生きているという事実にこそあると思われる。簡単に言えば、『月の砂漠』は、よく分らないヘンな映画で、とても面白かったのだ。いろいろと文句はあるものの、青山氏が現在最も支持されるべき映画作家であることは間違いがないように思えた。