サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた

サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた。これはまるで夢のように掴み難くて、夢のように難解で、夢のように分裂が分裂のままであり、夢のように逃げ場(外側)がなく、夢のように切実で、そして夢のように美しい物語なのだった。これを読むと、人称というものが、後から意図的に整理されることで初めてあらわれる、人工的なものであることが実感される。《彼は自分について、まるで他人についてのように話す。自分について話しながら、彼は言うのだ、彼はまるで他人について話すように自分について話していると。》決してその外へと出ることが出来ない暗闇があり、そこに「おまえ」という二人称で語る声が響く。その声と、声を聞く者、そしてそれらすべてを想像している者....。それらは全て自己であり、自分自身を自分の伴侶として想像することであるのだが、しかしそれらのバラけた者たちは、決して「自分」というひとつのものには、回収されないし、統合されない。《ただ一人。》という言葉で締めくくられるこの物語は、《ただ一人》という徹底して閉ざされた暗闇のなかにうごめく複数の声たちの統制不能な反響として綴られている。その暗闇すらも複数あるらしいのだが、しかしそれも含めて《ただ一人》なのだ。《おまえといっしょに闇のなかにいる他人についての作り話。闇のなかにおまえといっしょにいる他人について作り話をするおまえについての作り話。》

徹底して《ただ一人》であることが、すでに複数であること、にも関わらずどこにも外はないということ、そのような場所で自分自身を自分の伴侶として想像すること。このような物語に、それでも「他者」のイメージがほんの微かなエコーのように響いてはいる。例えば、かつて「おまえ」が出かけるときにいつも傍らに居た「父親」のイメージ(しかし、それはもういない。)、あるいは、「おまえ」の若い盛りを想像するときにそこにあらわれる「彼女」のイメージ(しかし、それももういない。)。この「彼女」のイメージはあまりにいいので、思わず書き写したくなってしまう。

《おまえは、ポプラの下に横たわっている。その震える影のなかにいる。彼女は、肘をついて体を直角にまげて横になっている。おまえのつむった眼は、彼女の眼のなかをのぞきこんていたところだ。闇のなかで、おまえはまたのぞきこむ。もう一度。おまえは自分の顔の上で、彼女の長く黒い髪の端が、静かな空気のなかに動いているのを感じる。髪の束の下におまえたちの顔が隠れる。彼女はづぶやく、葉っぱの音を聞いてよ。おまえたちは見つめあい、葉のすれる音を聞く。その震える影のなかで。》

しかしこの美しいイメージは、「思い出」などではなく、暗闇のなかで「おまえ」と語りかけてくる声によって語られた、「おまえについての作り話」に過ぎず、しかもそれを暗闇のなかで横たわって聞いている「誰か」は、その声が自分に語りかけているものなのかかどうかも分らないのだ。だからこのイメージは誰にも所属せず、ただ言葉として宙を(暗闇のなかを)漂っているだけなのだった。