是枝裕和の『DISTANCE』を観る

昨日の日記で触れた是枝裕和の『DISTANCE』が、決して「物凄い傑作」ではないのには幾つか理由がある。

昨日、夏川結衣の足の裏の汚れが、テマティズムともフェティシズムとも無関係だ、と書いたけど、この映画が、あからさまに「水」と「炎」という主題に貫かれていることは、誰が観ても明らかなことだろう。宗教をテーマにした映画が、森のなか=自然を舞台にした「水」と「炎」という主題の交錯によって描かれる。これだけでもう、かなり恥ずかしいことだ。最後にARATAによって、湖にかかる桟橋が燃やされ、湖と炎が同一のフレームに納まってしまうシーンを観た時などは、あーっ、やっちゃったよ、と正直思った。こういう「象徴的なイメージ」に頼ってしまったら、この映画がそこまでやってきた、「時間の質」を全て台無しにしてしまうのだ。この映画は、教団の教祖を安易に「父」になぞらえてしまったりする所も含めて、本当にキワキワなところがあるのだ。あるいは、山のなかで、自動車という便利な移動装置、携帯電話という外への通信装置を奪われて、人と人とが本当に「向き合う」みたいな(あるいは「距離」を確認する、みたいな)物語にも読めてしまいかねないし。(しかし彼らは決して「向き合」ったりはしない。同じ場所で時間を共有しながらも、一人一人がそれぞれ別の方向を向いてるように思う。別の方向を向いた人たちが、偶然から同じ場所に留まらざるを得なくなった、という状況で流れる微妙な時間こそがこの映画なのだ。)つまり、「読み方」によっては、もうこういうのはカンベンしてくれ、というような最悪の映画のようにも見えてしまうものだ。

しかし、監督によって明らかに意図されている「水」と「炎」というイメージの交錯は、この映画ではそれほど鮮明な効果を発揮しているようには見えない。なんかやたらと水辺の風景ばかりが目につくなあ、と思いはするものの、「水」のイメージが特に際立って何かを訴えたりはしないし、伊勢谷友介がスイミングスクールでバイトしていたりするのも、あざとい「水」という主題系のひとつと言うよりも、こんなにイイ身体してたら、やっぱ裸を見せときたくなるよなあ、という印象の方が強い。山小屋での焚き火にしても、炎のイメージが際立つのではなく、炎を前にした人々の佇まいとか、「焚き火を囲む時間」の方が前面に出てきているように思う。この映画では、幸いなことに「水」と「炎」という象徴的な主題の交錯は不発に終わっているのだ。(だからこそ、最後の桟橋炎上のシーンが、あんなに取ってつけたような感じになるのだろう。)是枝裕和という人は、象徴的なイメージを物質的な生々しさとして出現させるような才能とは、徹底して無縁であるように思える。

この映画で重要なのは、メタ・レヴェルで映画全体を制御しているような主題=イメージではなくて、あくまで具体的に流れている時間の質であり、俳優の演技であるのだ。ここで言う、俳優の演技というのがまた微妙なもので、これをいわゆるドキュメンタリー・タッチの自然な演技と捉えるのは間違っているだろうと思う。ここにみられるのは滑らかな「自然さ」というよりむしろ「小さな違和感」の集積のようなもので、「手持ち無沙汰」とか「所在なさ」という言葉で言われるような、滞る感じ、ピッタリとは決まっていない感じが幾つも折り重なってゆく様だと言える。そのひとつひとつは強いものとは言えないかもしれないが、しかしそれらは決して自然さや物語には回収されてしまわず、ノイズとして引っ掛かりつづける。その微妙にズレたこなれない感じを消してしまわないための、即興なのではないだろうか。しかし、監督の是枝裕和は、自らの俳優に対する演出意図を明確には掴み切ってはいないのではないかという危うさも感じられ、それが弱さでもあると同時に、そのことが微妙な揺れを映画にもたらしているようにも思えた。