是枝裕和の『DISTANCE』を観る

澁谷のシネマライズで、是枝裕和の『DISTANCE』を観る。物凄い傑作と言う訳にはいかないにしても、とても面白い映画だった。この映画がどんな映画かというと、夜も更けて冷えてきて、伊勢谷友介ARATA浅野忠信が焚き火を囲んでいるところに、後から夏川結衣がやってきて輪に加わる時に、火の前で手を擦りあわせる、その、手を擦る音がよく聞こえてくるような映画なのだった。そういう音響をわざわざ強調しているというのではなくて、そういう微妙な物音や表情がよく聞こえよく見えてくるような、そんなゆるやかな時間の流れのなかに入り込むような映画なのだ。夏川結衣が、突然前触れも無く帰ってきた夫を追い返すために裸足のまま玄関先まで出ると、案の定足の裏は汚れているのだが、その足の汚れを、とても生々しくリアルに感じられるような時間が流れている。それは「足の映画」とかいうようなテマティズムやフェティシズムとは無関係の、ああ、裸足のまま出れば、それは汚れるだろうなあ、ザラザラしていて冷たい感触なのだろうなあ、と納得するような、世界の微細な表情に改めて気付かされるような感覚なのだ。

ピーンと張った緊張感が漲っている訳でもないし、ぎゅっと凝縮されたような充実した時間が流れているのでもない。何か驚くべき過剰なものが露呈している訳でもないだろう。どちらかというとルーズでゆるーい時間が流れているのだが、心地よく微睡んだり、トランス状態へと誘い込まれたりはしない。大したことは何も起こらないままズルズルと進んでゆく時間は、それでも常にどこか軽い違和感を内包していて、緊張が完全に弛んでしまうことはない。かなりゆったりとしているのに、外に対する感覚は鋭敏に開きつづけるのだ。ショットは明確に(段取りによって)演出されている訳ではなく、ハッとするような映画的空間が出現する訳でもない。俳優の演技はイイ感じに脱力している。おそらく、俳優は状況設定だけを指示されて自由に動かされ、カメラはそれを即興的に追っているのだろう。撮影が特に素晴らしいということもない。つまり、これは、映像と音響のモンタージュによって、ある充実した、凝縮された物語やイメージを示すような映画ではないのだろう。映画を観ることによって、この映画でしか得られないような質の「時間の流れ」を体験する、というような映画なのだ。

物語も、ゆったりまったりとしながらもどこか所在無いような宙吊りの時間を描く。明らかにオウムを想定したと分る宗教団体による無差別テロが物語の背景にある。舞台は事件の数年後。実行犯の遺族(実行犯も教団によって殺されている)4人は、毎年その事件の日に、彼らが殺された山奥の湖へ供養に行くことになっている。そこで元信者(実行犯の一人である筈だったが、事件の直前に脱退した)に会う。彼らは車やバイクを盗まれて帰ることが出来なくなる。そこで、実行犯の遺族4人と元信者は、実行犯たちがアジトにしていた山小屋で一夜を過ごさざるを得なくなる。既に事件から時間が経っていて、それぞれの生活があり、供養も形式的なものになりつつあるが、かといって事件の記憶から解放されている訳でもない遺族たちと、実行犯たちと行動を共にしながら直前で逃げた元信者が、アジトで、朝までの微妙な時間を過ごす。何か決定的な対立が起こる訳でもなく、お互いに理解を深め親交を深める訳でもなく、遠慮がちで途切れがちで核心を避けたような会話が、ぽつりぽつりとつづき、それぞれの過去が回想として浮かびあがる。そこで何ごとかが起こる訳でもない微妙な時間がゆったりと過ぎてゆき、それでも5人の間には「一晩を同じ場所で過ごした」という不思議に親し気な空気も漂うのだが、しかし一人一人は全くバラバラな別の現実と繋がっているという距離を忘れることはない。

この映画の物語を、「あの事件」に関する考察/批判として捉えるならば、全然充分ではないという意見が正しいだろう。特に、映画の後半、「あの事件」の意味を「父性の不在」という方向へと強引に着地させようとする態度は同意しかねる。しかし、この映画が「あの事件」の批判たりうる強度を持つとすれば、それはこの映画に流れている「時間」の質に、どこまでも散文的な強度、ゆるーく流れる何も起こらないような、それでいて微細な差異が立ち上がってくるような、そんな時間の質にこそあらわれていると思うのだ。

(時間の質というのとは少し違うかもしれないのだけど、常に複数のチャンネルと接続している感じ、というのも重要だろう。例えば、寺島進は、妻と同級生が教団に出家するというのに激昂して、喫茶店で2人にタバスコを投げ付け、2人が去った後は絶望して頭を抱えているのだが、割れたタバスコの瓶を片付けにきたウェイトレスには、そんな状態でありながらも、「すいません」と一言言うのだ。これはたんに彼のそういう人柄を描いている、というだけではないように思われる。つまり「現実」に向き合うというのは、ある特別の一点によって世界と触れあうのではなくて、同時に複数のチャンネルと向き合うということだと思うのだ。この映画の登場人物たちは、それぞれ別個に複数のチャンネルと向き合っている。山奥のアジトという、今、ここの場は、そのうちの1つであり、複数のチャンネルのうちの1つを共有しているに過ぎないのだ。)

この映画で素晴らしいのは、何といっても俳優たちだろう。(特に伊勢谷友介浅野忠信)何よりも素晴らしいのは、一人一人の人物の身体的な差異がはっきりとあらわれている、と言うことだろう。つまりそれは同じ場所に居ながらそれぞれが別のチャンネルをもっているということだろうと思う。それは決してカサヴェテスの映画のように、身体が圧倒的に過剰なものとして露呈してくるには至らないのだが、だからと言って物語やキャラクターに還元されてしまうことはない。それこそが映画というものなのではないか。