●デヴィッド・リンチ『ワイルド・アット・ハート』をDVDで観直してみた。最初に観た時は、この映画でリンチがなにをやろうとしているのかよく分らなかった。だけど、『マルホランド・ドライブ』や『ロスト・ハイウェイ』などの完成度の高い作品を観た後では、リンチがやっていることは、それらと基本的にはかわらないのだということが分る。
リンチの世界は基本的に、事件(出来事)よりも、何かが起こりそうだという予感や恐怖の方が強くて、世界が徴候で埋め尽くされている感じだ。徴候によって事件が先取りされ、あらかじめ徴候にまみれていることが、現実に起こるかもしれない「出来事」への防衛としてはたらいているかのようだ。(あるいは、既に起こってしまった出来事から逃避し、それが隠蔽されることで、そこから無数の徴候が立ち上がってくるのかもしれない。)出来事から切り離されて、それ自体としての密度をもつ徴候が、いくつもひしめきあっているので、出来事が入り込む余地がなくなってしまったかのような世界だと言えばよいのか。いくつもの徴候がひしめきあうように並立する世界で、ひとつひとつの徴候の強さは、因果関係を成立させる時間や空間の秩序を超えてあらわれるため、時間や空間を崩してしまう。時間や空間の秩序が崩れることで、出来事が不可能になる。ある出来事が、実際に起こったのか、それともその予兆を感じて恐怖しているだけなのか、それともそれは既に起こってしまった出来事の余韻が悪夢のように反復されているだけなのか、リンチの世界ではその区別がつかなくなる。おそらくそこでは、既に決定的な出来事が起こってしまっているのだけど、それを受け入れることが出来ないでいるので、あたかもその事件が未来からやってくるかのように感じ、そしてその出来事に関する抑圧された記憶が、やがてくる事件の予兆のように未来の方から回帰してくる世界なのだろう。(当然のことだが、リンチの作品の強度は一つ一つの徴候の手触りにこそあるのだから、物語上の「形式」や「謎(の解明)」などはほとんど意味がない。)
ただ、『ワイルド・アット・ハート』が他のリンチの作品と異なる点は、主人公の若いカップルの存在によると思われる。彼等は、リンチ的な、徴候で埋め尽くされた世界を突き破るかのように、ひたすらセックスをし、ハイウェイを車で飛ばすのだ。この、ひたすら能天気で動物的にも思われるカップルは、しかしそれほど単純ではない。男には秘密があり、女には外傷的過去がある。この、二人のもつ過去はどちらも女の母親と深くかかわっていて、それが『ワイルド・アット・ハート』の基本的な世界を形作っている。女の母親のまわりに配置される、濃厚な徴候的世界から逃れるために、若い二人ははげしくお互いの身体を求め合い、歌い、踊り、そして車を走らせる。この時の、瞬間的な(瞬発力を要する)身体的な強度のみが、(未来からやってくる過去である)徴候を突き破る。きわめてバカっぽいこのカップルの行動は、徴候に埋め尽くされる世界へ引き込まれないための必死の闘争でもある。リンチにおいては、窒息するほどに濃厚な徴候的世界を突き破るものは、ただ性的他者の身体の感触(肌触り)のみであるかのようだ。(『ワイルド・アット・ハート』よりもずっと落ち着いた(バカっぽくない)感じではあるが、その感じは『マルホランド・ドライブ』からも感じられる。『マルホランド・ドライブ』では、作品としての完成度が高い分、その徴候的世界はより強固に閉じられ、出来事は作品の外部へと排除されているのだが、二人の女性主人公の性交の感触だけが「出来事」と辛うじて通じているかのようだ。)
この映画の前半で、カップルのひたすらバカげている(しかし、生き生きと飛び跳ねるような)行動は、リンチ的な、濃厚な徴候的世界とは上手くまじり合わずに、水と油のように分離しながらも、同等の強さで拮抗し、併置されている。『ワイルド・アット・ハート』という作品独自の面白さは、ほぼこの点に尽きるように思われる。(これを観ると、この頃はリンチもまだ「若かった」のだなあ、と思う。おそらく、最初に観た時に訳が分からないと感じたのは、この二つのものの分離のためだと思われる。しかし、今観ると、そここそが面白い。)だから映画の後半、このカップルが一つの土地に滞在して、徐々に徴候的世界に染まってゆく展開になると、ぼくにはやや退屈に感じられてしまうようになる。(後半の展開だったら、最近の完成度の高い作品の方が良いと思う。)
それにしても、ラストは、あまりにバカバカしいので感動してしまった。(「ラブ・ミー・テンダー」を歌い上げるニコラス・ケイジ。)やはり、まだこの頃のリンチは若かったのだなあ、と思うのだった。