スピルバーグの『ミュンヘン』をDVDで

スピルバーグの『ミュンヘン』をDVDで観た。歴史という点から見れば『シンドラーのリスト』と対になっているし、現代(政治)という点から見れば『宇宙戦争』と対になっている。内容から考えると不謹慎かも知れないけど、映画として普通に面白く観られる。それほど描写に時間を割いているわけではないのに、暗殺者たちのキャラを的確にたてているし、その組み合わせも面白い。リーダーの頼りなさも魅力的だし、情報屋としてマチュー・アマルリックをキャスティングするセンスなど、スピルバーグのヨーロッパに対する独自の視点を感じさせる。風景の捉え方も、紋切り型とギリギリのところで、妙な面白さを生んでいる。(エッフェル塔が見えるところに怪しげにマチュー・アマルリックが立っているところなど、笑ってしまう。)多くの人が指摘する料理のシーンも魅力的だし、「パパ」の住むホームの描写など、ちょっとベルトリッチを思わせる程に享楽的だ。暗殺の手順の描写や、その過程のサスペンスの盛り上げ方、そして、暗殺者たちのなかでも、オモチャをつくる爆弾製造者のアマチュアっぽさや性格の弱さを強調するところなど、なんと言うかとても「映画マニア」っぽい。(少女が忘れ物をして部屋に戻る、なんていうベタなサスペンスを、喜々として撮っているようにもみえる。)オランダで女を殺すシーン(二人がもたもたしている後ろから、不意に三人目があらわれてあっけなくとどめを刺す)など、単純にとてもかっこいい。おそらく内容との関係から、今時のハリウッド風の派手な描写ではなく、抑えた描写を中心とするこの映画は、その抑制によって返って、スピルバーグの「映画マニア心」に火をつけたようにも思える。この映画は、その内容のシビアさに反して、スピルバーグが「楽しんで作っている」感じが強く感じられる。(細部のつくりこみを過剰に楽しむことによってはじめて、このデリケートでヘビーなところに触れざるをえない映画をつくることが可能となったのかもしれない。)
●この映画はいくつかの部分に分裂している。最初の、ミュンヘンでの事件をメディア的な状況をふまえつつ描出する部分。中盤の、暗殺者が暗殺を実行する(映画として享楽的でもある)部分。最後の、イスラエルを捨ててアメリカで生活する主人公を描く部分。この三つがまるで別の映画が組み合わせられるように繋がっている。そしておそらく最も弱いのが最後の部分だろう。終盤の主人公は、まるで『宇宙戦争』の娘みたいに、目を見開いたままで閉じること(眠ること)ができない。彼が見ているのは『宇宙戦争』の娘のような、今、目の前で起きていることではない。しかし、では何なのか。自分がしてきた殺人の場面なのか。それとも、たんにそれだけではない、やむ事のない、長い歴史のなかで繰り返される暴力の連鎖のようなものなのか。あるいは、自分や家族へと及ぶかもしれない暴力の予感(恐怖)なのか。おそらくそれらの全てであり、全てが絡み合った現状なのだろう。というか、主人公が目を見開いて見ているのは、観客がそれまで観て来た「この映画」のあらゆる場面であるのかもしれない。(しかし、いかに深刻な主題を扱っているとはいえ、観客はこの映画を「面白く」観て来ていることは否定しようがない。暗殺の段取りを楽しみ、少女が爆破の巻き添えにならないかハラハラし、豪華な料理を目で味わい、ヨーロッパの風景の美しさを楽しみ、情報屋マチュー・アマルリックの一家の怪しさを面白がっている。勿論、そのことは、この映画が提示するシビアで複雑な問題と必ずしも矛盾するわけではない。)
スピルバーグは、このまなざしを説明し補強するかのように、主人公が奥さんとするセックスの最中に、暴力的なヴィジョンを観てしまう、というシーンをつくる。だがこのシーンはあまりに唐突で、説得力に欠けるように思う。というか、『宇宙戦争』のように、ただひたすら「貧しく」、一方的な破壊と殺戮のみを提示した作品とは違って、もっと複雑でデリケートなものを提示しようとしているこの作品の最後を、主人公の「まなざし(苦悩)」のようなものへと集約させようとしたことが適当ではなく、それが弱さに繋がっているのではないだろうか。
●昨日の散歩のつづき。(「散歩06/09/04(2)」http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo.4.html)