『strawberry shortcakes』(魚喃キリコ)

●『strawberry shortcakes』(魚喃キリコ)を読んでいた。ぼくは様式的な絵が駄目で、例えば、丸尾末広とか、摩耶峰雄とか、藤原カムイとか、松本大洋とか(例として上げる作家が今時風ではなくて微妙に古い気もするけど)は「絵」を観ただけで受け付けられない。山岸涼子でさえ時にきついのだけど、山岸涼子はあまり絵がうまくないので(「線」が自信なさげな感じなので)かえって救われている。あずまきよひことかも、絵だけを見ればかなり退屈だ。これはあくまで「好み」の問題なのだけど、様式的な絵が駄目なのは堅くて退屈だからで、つまりどんなに描き込んであっても、書き込みのパターンが一目で読み取れてしまうので(あるいは「線」が単調なので)、目がそこに入り込めなくて(「見る」べき何ものかがみつけられなくて)撥ねつけられてしまう。魚喃キリコの絵が不思議なのは、一見、様式化されたもののように見えるのに、決して退屈ではない、つまりパターンが読めそうで読めない。(人物の顔の描写などは多分に様式化されていて、あまり魅力的ではないのだが。)これは、線そのものに独自のキャラクターがあるからだと思うけど、それだけでなく(特にクローズアップの時の)構図の取り方が変わっている(予測出来ない)ということもあるのではないか。(あと、風景をたんに背景ではなく、ちゃんと風景として描けるかどうかも大きいと思う。)
ぼくはあまりマンガを読まないので、知っているサンプルの数がきわめて貧しいなかでの判断でしかないのだが、マンガの「線」には確実に岡崎京子以前と以後とがあるように思う。岡崎以前のマンガの線は、強力な抑圧としての手塚治虫の影響が常にはりついていて、手塚的な、丸くてやわらかく強弱のある線か、それへのアンチとして、(いわゆる劇画タッチのGペンで描いたような)強弱のはっきりした線くらいしかなかったように思う。七十年代にあらわれた少女マンガという新しい表現形態においてですら、ある種の過剰な装飾性をのぞけば、線そのものはあくまで手塚タッチだった。(倉多江美のような特異な線を引く人もいるにはいるけど。)岡崎京子の乱暴でぶっきらぼうな線によってはじめて、強力な手塚治虫の抑圧の外へ出る道が示されたように思う。(いわゆる、今時の秋葉原系の萌え絵も、基本的に手塚的なものの内部にあると思う。)魚喃キリコは明確に岡崎以降の「線」の作家で、つまり手塚的抑圧の外に出ることではじめて、内容的にも、マンガ表現において(『strawberry shortcakes』のような)リアリズムが可能になったのだと思う。(ガロ系の作家のリアリズム、例えばつげ義春のような人もいるにはいるけど。)
●『strawberry shortcakes』では、延々と、ある種の女性の「欲望」の有り様のみが描かれているのだと思う。彼女たちは皆孤独で、つまり他人にあまり関心がない。彼女たちの欲望は他人に向かっていて、つまり他者を欲望しているのだけど、にも関わらず他者に関心をもっていない。彼女たちにとっての関心は、自分の欲望の対象としての他者であって、実際にそこにいる他人には興味がない。(つまり、他人も同じようにそれぞれの欲望の形態を持ち、それぞれに孤独であるだろうという想像力を、登場人物たちは持っていない。)だが、その欲望と孤独の感触はとてもリアルで、この作品に出て来る女性たちの欲望の有り様は、ぼく自身のそれとは全く違っていて、だから「共感」はできなくて、まるで未知のものを学習するようにこのマンガを読み進めるのだけど、しかしそこに確実に説得力があるからこそ、たんに「学習」としてではなく、ある実質をもった作品として、ある(「共感」とは別の)強い感情とともに、この作品を読む。このマンガには男性が全く出てこない。例えば、秋代という登場人物は、菊池という男性を非常に強く「思って」いるのだが、この作品を読むだけでは、この菊池という男性がどんな奴なのか全くわからない。菊池はまったくののっぺらぼうであるかのようだ。描かれるのは、秋代の思いの強さと、その欲望の構造や感触ばかりだ。だからこの作品には、異なる欲望の形態を持つものたちの、誤解や齟齬やすれ違いは描かれず、その一歩手前で巧妙に寸止めされ、ただ個々の欲望がバラバラなまま積み重ねられていて、だから、一人一人は皆孤独で寂しいのだけど、その欲望や思いはその外側から守られたままで終わる。