松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む

松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む。どの本だか忘れてしまったけど、松浦氏の本に、《何ものをも表象しないし、何ものによっても表象されえないものが「女」だ》とかいうことが書かれていたと記憶しているのだが、つまりはそういう見方のことを「マッチョ」と言うのだ。これは丹生谷貴志氏が《男であることの恥ずかしさによって書く》というのと、一見近いようでいて全く違っていると思う。このような事実を、聡明な松浦氏が意識していないとは思えない。ぼくは、松浦氏が小説を書くということは、つまりは「マッチョ」に居直るということであるように思う。自分は今後、マッチョなエロジジイとして生きてゆくのだ、という開き直りこそが、松浦氏の小説であるのだ。詩人としての松浦氏が、世界にあらわれるあらゆる繊細な表情の変化のなかに官能性を見いだしてゆくことによって、マッチョなエロを解体しようとしていたのに対して、小説家としての松浦氏は、「女」を、世界にあらわれる繊細な表情の変化へと還元してしまうことで、マッチョなエロを完成させようとしているように、ぼくには見えてしまうのだ。つまりは、小説家である松浦氏にとっては、「女」が何を言おうが、それは木の葉が風に舞ってたてるサラサラいう魅惑的な音と基本的には変わらない、という態度で接するのだ。そうでなければ、女の白い背中のイメージと、満月の白い光のイメージが、あんなに見事に重なり合うはずはないし、あるいは、暗闇のなかで空中浮遊する女の白い身体のイメージと、白い紙に毛筆で引かれた「一」という黒い文字のイメージとが、白黒を反転させた同一のイメージとして、あんなに見事に納まってしまうはずがない。この小説において、巴=朋絵は、それ自体として過不足なく満たされた完全な記号であると同時に、だからこそ何も意味しない空虚な記号でもある訳だが、朋絵という記号がそのように機能する時に、隠蔽され、無かったものとされてしまうのは、実際に朋絵という役割を演じさせられた具体的な身体の存在であり、その身体を描写するために使用されたひとつひとつの言葉たちであるというのは、この小説にも示されている通りだろう。朋絵の「正体」が徐々に明らかにされてゆく過程(と言うか、イメージが徐々に流動してゆく過程)で、揺らいでしまうのはただ主人公であり話者でもある大槻という人物にとっての世界(意識)であるに過ぎず、そこでは朋絵であることを強要された身体の存在はいつの間にか不問に伏されてしまうし(あの、地下に隠されたヘドロで満たされた水槽のなかに捨てられているのだろうか)、冒頭からかなりの量費やされてきた、朋絵に関する描写の言葉は、具体的、即物的な言葉として存在していたのではなく、ただ大槻と言う主体の内部にのみ従属していたに過ぎないことになってしまう。

この『巴』という小説の説話的なつくりは、かなり通俗的なものだと言っていいと思う。(形而上学推理小説?、しかしこれをミステリーと言うとミステリーファンは怒るだろう。)松浦氏は、この通俗的なパズルを、充分に楽しみながら筆を進めているようにみえる。何しろ、「女」の説話的な機能や、舞台設定、あるいは暴力やポルノ的な雰囲気の漂わせ方などをみると、思わず村上春樹(『世界の終り...』や『ねじまき鳥...』)を連想してしまうくらいだ。しかし何よりも、朋絵という女から連想されるのは『エヴァンゲリオン』の綾波レイだろう。実は、松浦氏は密かに『エヴァンゲリオン』のファンなのではないか。あの、地下の実験室のような場所にある水槽のなかに、無数の綾波レイの出来損ないが浮かんでいるシーンなどを思い出すと、そのままあのイメージが、この『巴』という小説の基底をなすイメージと繋がっているようにさえ思えてくるのだ。そう考えると、主人公であり話者である大槻という男の、鼻につくほどの自己中心ぶりなども、碇シンジのそれとピッタリ重なるようにも思えてくるのだった。まあこれはほとんど冗談だけど、でも、この34歳の男(ぼくと同じ年齢だ)によって語られる意識=世界は、エヴァ的(精神年齢14歳的)な幼く稚拙な自己中心的な意識=世界の姿を、おそらく確信反的な居直りによってなぞったものとして設定されていると思われる。精神年齢14歳のマッチョ・エロジジイが、綾波レイを追って、ハードボイルド・ワンダーランドを駆け抜けてゆく。『巴』はそんな小説である、と言ったら言い過ぎだろうか。

松浦氏がここで問題にしているのは「イメージ」なのだ、ととりあえず言ってみることも出来るかもしれない。つまりここで言う「女」とは「イメージ」のことであり、「イメージ」とは実体もなくいくらでも反復=複製が可能であり、それには決して触れることも近寄ることも出来ないにも関わらず、目の前に歴然として現前してしまっているもののことだ、と。例えば、「イメージ」とは、アンディ・ウォーホルシルクスクリーンで無造作に反復させるマリリン・モンローやジャクリーン・ケネディのようなものであり、スクリーンの上で微笑むファム・ファタールのようなものであり、つまりは深層(物質的な基盤との連続性)を欠いた表層それ自体のことである、と。深層とは無関係にそれ自体としてしかありえない「イメージ」こそが、《何ものをも表象しないし、何ものによっても表象されえないもの》なのだ、と。まあ、これが『平面論』などで展開されている、松浦氏による1880年以降の西欧においてあらわれた近代的な「イメージ」なのだった。だからつまり、朋絵とは始めから最後まで「イメージ」であるのだから、それが物質的な基盤としての具体的身体を持たないのは当然のことなのだ、と言えるのではないか。しかし、確かに「イメージ」は深層(物質的な基盤)とは異質な切り離されたものであるのだが、物質的な基盤=基底材なしに「イメージ」が立ち上がることが出来ないのも事実なのだ。スクリーンで微笑んでいる女の微笑みが、スクリーンやフィルムやプロジェクターとは切り離され、独立したものではあっても、スクリーンやフィルムやプロジェクターなしに、女の微笑みがあらわれることはないのだ。基底材は、それが「見えなくなる」ことによって「イメージ」を立ち上げる。しかし、それはそこにあるのだ。近代芸術というのは、簡単に言ってしまえば「イメージ」と「基底材」との血みどろの闘いのことでもあるのだ。(例えばセザンヌ。)だからぼくとしては、朋絵という「イメージ」を立ち上げることを可能にした身体が(あるいは描写が)、作中でいつの間にか消え去ってしまって、それが無かったかのように扱われてしまうことには、どうしても引っ掛かってしまうのだった。(朋絵に限らず、この小説のなかに幾つか登場するはずの「死体」も、即物的には顕在化せず、大槻の夢のなかと、ヘドロで満たされた水槽のなかへ隠されてしまっているのだった。)

以上のように、否定的な事ばかりを書き連ねてみても、ぼくはどうしても松浦氏の小説の魅惑には逆らうことが出来ないのだった。ごめんなさい、すごく好きなんです。途中、何度もうんざりするような引っ掛かりを感じつつも、『花腐し』も良かったけど、『巴』もスバラシイなあ、本格的に小説家っぽい、「俗っぽさ」と「汚れ」が身についたのだなあ、なんて思いながら読んでました。多分、ぼくはだらしなくもこの小説を、おりにふれて何度も何度も読み返してしまうでしょう。《空気が汚れのない水気をたっぷり含んでどこもかしこもかすかに振動しているような夏の早朝》に咲いたアサガオについての記述を引用してみる。

《色というものがこれほどじかに瞳に染みてくるものかと今さらながら子供のように感嘆し、ここから染料が採れるむのもむべなるかなと思う。これはとてもじゃないが眩しすぎる、世界のこんなみずみずしさにはとうてい太刀打ちできるものかと心中で呟き、暗い部屋に戻って湿った布団の上にまた横たわるのだが、瞑った瞼の裏に浮かび上がる幻影のアサガオの眩しさは、わたしの心をわずかなりと浮き立たせてくれもするのだ。》