高橋源一郎の『日本文学盛衰史』

なんとなく、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読みはじめて、半分くらいまで(「原宿の大患3」まで)読んだ。つくづく高橋源一郎という作家は、「感傷的」な作家なのだなあ、と思う。明治の作家たちの群像を描いていると言えるこの小説の登場人物たちが、自分に新たに芽生えてしまった「内面」というものを表現するための「言葉」をまだ持つに至っていなくて、自分がいつの間にか持ってしまっていた「内面」と、書いてしまう「言葉」とのあいだのズレに苦しむのだとしたら、高橋氏の場合は、自分が持ってしまっている「古臭い文学的な内面」と、自分が使うことの出来る「現在の言葉」との間にあるどうしようもないズレに苦しみつつ、そのズレ自身をみつめることよってアクロバティックなまでに捩れたテキストを生産している、という感じか。そして、「現在の言葉」を使用して構築されているはずのそのテキストは、何故か古臭い文学的な感傷でどっぷりと満たされてしまっているのだ。この、形式と内容の不一致というか、捩れ工合が高橋氏の小説の特徴であり、そこから、独自の「感傷」や「寂寞感」のような、魅力の中心をなすものが生み出されているのではないのだろうか。しかし、いかにそれが「現在の言葉」の使用による果敢な実験であるとしても、その落とし所がいつも「古臭い文学的な内面」における亀裂であり、湿った「感傷」であるという事実はどうしようもなくあるのだ。高橋氏はとてもクラシックな作家である。勿論、それは尊重されるべき事柄ではあるが、でもぼくが今、現在を生きているときに感じているリアリティは、高橋氏の小説とはかなり違ったものであるということは、どうしようもなく感じてしまう。

基本的に「湿った感傷」によって特徴づけられる高橋氏のテキストは、しかし何故かAVを素材にしている時に、ふっと乾いたナンセンスのようなものに触れる瞬間があるように思う。とても充実した、緊密に構成された高橋氏的テキストで滑り出し、「硝子戸の中」から「HANA-BIみたいな散歩」のあたりでは、しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』を思わせるような、シュールなイメージの集積が何とも良質の抒情を描きだす高橋氏の言葉たちは、そこから「布団98・女子大生の生本番1」のあたりでがらりと表情をかえる。高橋氏のAV物といえば『あ・だ・る・と』も良かったけど、ここではさらに明治の作家(主に田山花袋島崎藤村、そして石川啄木)が加わることで、厚みが増し、時空も錯綜して、立体的になるのだ。「布団98・女子大生の生本番1」から「我々はどこから来たか、そして、どこへ行くのか4」までの展開は本当に素晴らしいと思う。登場人物である明治の作家たちのキャラも、このあたりらシャープに立ちはじめるし。高橋氏のAV物が素晴らしいのは、おそらく高橋源一郎という人が、テキストを通じて世界と接している人で、AVというのが、いかに日々、泡のように大量につくられ、消費されて消えてしまうような風俗の一部だとだとはいっても、それは制作されたものであり、ビデオテープという基底材に定着されたものであり、それを制作する人(つまり「作家」)が存在するもの、つまり一種の「テキスト」であるからだろうと思う。それは「ガングロに白メッシュのコギャル」のように、必ずしも「テキスト=言葉」には回収されない「存在」であり、日々不安定に流動しつづける「風俗」そのものであるようなものとは違うのだ。勿論、「ガングロに白メッシュのコギャル」というのも「言葉」に過ぎないのだが、その言葉が指示する対象や、その言葉の他の言葉に対する位置がとても不安定でうつろいやすい「風俗」としての言葉なのだ。事実、「ガングロに白メッシュのコギャル」という言葉は数年前にくらべて確実にインパクトがなくなっているし、それが何か突出した意味を表象するような言葉ではなくなっている。その上、その指示対象である「ガングロに白メッシュのコギャル」自身が、今や絶滅の危機にさえあるのだし。逆に言えば、高橋氏は「風俗」を描くときでも「風俗」のただなか(あるいは「風俗としての言葉」のただなか)において描くのではなくて、比較的安定したAVという「テキスト」を必要としてしまう、というのが、クラシックな作家としての高橋氏の限界であるとも言えるのだ。

ともあれ、田山花袋島崎藤村のテキストと、現代の風俗的なテキストであるAVが(あるいは、「露骨なる描写」と「ビデオという装置」が)交錯したところに浮かび上がってくる「布団98・女子大生の生本番1」から「我々はどこから来たか、そして、どこへ行くのか4」までの展開は冴えていて、『日本文学盛衰史』の後半部分を続いて読みすすめてゆくよりも、この部分だけ何度も読み返した方がいいのではないか、とまで思ってしまうのだった。(この部分に続く「原宿の大患」の最後で、モーツアルトとか、死を前にした病人とかを出してくるような展開は、ちょっとどうかと思う。こういう所が、高橋源一郎の最も嫌な部分だとぼくは思うのだ。あと、どうでもいいことだが、「原宿の大患」の冒頭で「ぼく」という人物の娘の名前が「茉莉」になっているので、当然この一人称の「ぼく」は現代に出現した鴎外のことだと思って読んでゆくと、実は「高橋」という現代作家なのだった。これは意図的に引っ掛けようとしているのか、それとも高橋氏は、実際にも自分の子供に「茉莉」と名付けているのだろうか。)