渡部直己による斉藤環批判、『徴候としての「批評」』(文學界2月)から感じた、ちょっとした違和感を巡って。
●言語が作動する時、そこには常に原初的な対象関係(母親との関係)や象徴界への参入時における外傷が呼び出され、「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」(症候)が起動するというような精神分析の言い分は妥当なように思われる。(例えば樫村晴香によるこの論考(http://www.k-hosaka.com/kashimura/tinou.html)を参照されたい。)しかし同時に、「文学」がいつも「精神分析」を簡単には承認せず、そこに根拠を見いだすのに抵抗し、それに批判的なのもまた当然であろう。文学は、精神分析が見いだす重力=外傷(「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」)に対する抵抗、あるいはその解体(脱構築)としての、高度な言語的パフォーマンス(実践)としてあるとも言えるのだから。そこには、あくまで科学的-分節的な言語であろうとし、徹底して分節的であることによって対象関係(愛や幻想)という重力を対象化しようとする精神分析的な知による言説(分節)と、逆にむしろ「愛」や「幻想」を積極的に起動させ、それにまみれながらも、そのただなかで、それを「解体(脱構築)」し、あるいはそれを「別のもの」へとつくりかえ、時に切断しようとさえするような、文学における言説、あるいは芸術(作品)という営為が、その基本的な組成を異にするという事実があるのではないか。だからこそ、安易に物語化された精神分析的分節や、安易に精神分析化した文学は、どちらもたんに退屈なのだ。渡部直己が、その斉藤環批判『徴候としての「批評」』(文學界2月)で言おうとしているのも、一見そのようなことにもみえる。例えばそれは渡部氏が、ラカンの脅威が《すべてを言葉そのものの病として分析するラディカリズムにあるのにたいし、ここに読み取れれるていのは、たんに病を伝える言葉にすぎぬのではないか》(太字は原文では傍点)と書くことにあらわれていよう。ここでは、あくまで実直な「小説読み」として、優れた小説とつまらない小説とを(どちらも「平等」に詳細に読み込んだ上で)容赦なく差別するという渡部氏の姿勢が貫かれているようにもみえる。だがしかし、実際にこの『徴候としての「批評」』という(あまりに無駄な迂回が多く混濁していて論旨の見えにくい)文章を一読した時の「素朴な印象」は、それとは異なるものだ。ここから「感じられる」のは、何かを守るために過度に攻撃的になっている人の身ぶりではないだろうか。つまり、素人の参入から「文学」という既得権を守ろうとする(かつての渡部氏が仮想敵としたような)「文学主義者」の身ぶりに似てしまっているのではないだろうか。例えば、テキストの外に現実的に存在してしまう「病」に対して、テキストそのものも否応無くある種の緊張関係を結ばざるを得ないという事実は確かにあり、何かを「言語化する作業」それじたいが「狂気」を産出する力をもっているという(テクスト論的な)点だけにテキストのおける「狂気」の所在を還元してしまうことは出来ないのだが、それだからこそ、テキストそのものが安易にその「外」を指し示す時、〈症状/表現〉という二項を不可視のうちに支える「〈症状/表現〉表現」という構図の「表現」という第三項が無自覚なまま強化されてしまうのであり、ゆえに、それは控えなければならない、あるいは、慎重な手続きがふまえられなければならない、という「表現」についての渡部氏の主張(これはぼくがかなり勝手にまとめてしまっているけど)は正当なものだと思え、その点で斉藤氏はあまりに素朴で、古風で(いい加減で)あり過ぎるというのも事実だとは思うが、まさにその素朴さ(と渡部氏には写るもの)によってしか捉えられないものを、粗っぽい手つき(と渡部氏には写るもの)で斉藤氏の本が捉えてしまっている(ように感じられる)という事実に対し、もう少し新鮮に(あるいは素朴に)「驚いて」もいいのではないだろうかと思うのだが。
(余談だが、渡部氏は、ラカン的な病に対してドゥルーズ的な健康を対置して論を締めくくるのだが、最後に「権威」としてのドゥルーズをもってきて締めくくる手つきの古くささはともかく、ドゥルーズの言う「健康」は、絶対的な弱者=病者においてこそあらわれる「健康」で、病と対置されるものではないはずだし、ラカンにとって人間は基本的に神経症であり、だからラカンの「症候」は健康と対置されるようなものではなく、この用語の違いは記述の体系の違いによっており、だから渡部氏による「健康/病」の対置は、渡部氏が批判する斉藤氏の〈症状/表現〉という対置同様に、いかにも安易で、むしろ斉藤氏の言う「趣味」の違いという言い方の方がずっと妥当だとおもわれる。)
●ここまで書いて、結局ぼくが『徴候としての「批評」』から感じた違和感は、正しいこと(と「内部」でされていることを「外部」の人に向かって)を言うことによる「抑圧的効果」(を無条件で「良いもの」としていること)が嫌だったということ、あるいはそれが過剰に防衛的な身ぶりにみえてしまうことが気になったこと、結局それは「生産性」には結びつきにくいのではないかということ、たったのだなあ、と気づいた。渡部氏の「考え」そのものについては、特に異論はないのだが。