芥川賞を誰が受賞しようが、しまいが、(それが「自分のこと」でもない限り)それ自体にはほとんど興味はないのだが、『グランドフィナーレ』(阿部和重)は、作品として「良いもの」だと言えるかどうかは別として、重要な作品であるように思う。確かに、小説としての、文章としての、強度よりもメッセージ性が優先され過ぎていて弱いとか、妙に「いい事」を言おうとし過ぎて阿部和重的な面白みに欠けるとか、そういう弱点はあると思う。だが、今までの阿部氏の小説を支えてきた、過剰に(他者の言葉をも吸収して)増殖する私語りが空転し、暴走して、多重人格的な乖離(阿部氏の場合、精神病理的な「解離」とは異なり、あくまでテキスト的な次元での人格の「乖離」なのだと思う)をもたらすという形とも、複数の視点がめまぐるしく切り替わることによる(斉藤環の言う「メディア的な」)分裂がもたらされ、世界の複雑な構造があらわになるという形とも異なる、別の形で小説を成り立たせることが試みられ、それが成立している点が、阿部氏に小説の新しい感触を付け加え、幅を広げているように思えるのだ。この小説では、比較的安定した一人称の「わたし」が持続しながらも、そこに他者による複数の視点が貫入し、それによって「わたし」に裂け目がひらかれ、「わたし」の分裂や崩壊ではなく、切断を挟んだ段階的な変化の描出が可能になっているように読める点で、いままでとは異なる。単純な話、阿部氏のいままでの小説で、主人公の「わたし」と、IやYといった、「世代」の異なる若者との、ごく普通の意味での(グループ内、あるいはグループ間での抗争や陰謀などを抜きにした、個人対個人の)交流と言うか「対話」が描かれることはほとんどなかったのではないだろうか。(『アメリカの夜』において描かれる時代の分かれ目とも言える「切断と変化(小春日和の終焉)」は、あくまで上の方からの「読書禁止」という命令とともにやってくるのであって、水平的な他者との関係においてあらわれるものではない。あるいは『無情の世界』に収録されているような多視点的作品においての水平的関係の連鎖は、玉突き的、偶発的に起こるのであって、ごく普通の意味での人物間の「対話」は成立しない。)このこと(比較的安定した「わたし」の持続とその段階的変化、そしてそれを可能にする/それが可能にする他者との対話)が小説を、普通でおとなしい感じと言うか、妙に「文学風」の感じにみせてしまっていることは確かだとは思うし、この方向性は、(恐らく)非常に厄介な「文学的内面」のような重力に捕われてしまう危険を強く持ち、必ずしも阿部氏の小説を今後「面白い」ものへと導くとは限らず、ことの是非については簡単には言えないだろうけど。ただ、阿部氏がその小説において描き得ることの幅を広げたことは確かだと思える。《これまでの作品に比べ、作家として芯(しん)が太くなったと感じる》という、現時点で公になっている宮本輝の選評も、決して的外れなものではなく、妥当なように思える。