●昨日、朝方までマンガを読んでいて、あまり眠らないまま多摩美のシンポジウムに出かけ、その会場が寒かったこともあって、何となく風邪ぎみで頭痛がするのだが、「傾く小屋」が最終日なので、東京都現代美術館まで行った。ここで展示されている様々なスタンスをもつ作家ひとりひとりについて何か言うだけの準備はないし、展覧会全体について言っても仕方ないので、画家である中村一美の作品についてだけ書く。
●絵画が、社会的な意味をもつというのは一体どういうことなのだろうか。最近の中村氏の仕事に対する解説めいた文章には必ず「Social Semantics(社会意味論)」という言葉が記されているのだが、これが具体的にどのような概念なのかはっきり示されてないのでよく分からない。例えば中村氏は、自作の『Negative Forest(ストライプへの欲望)』について、美術史上でアメリカ美術においてストライプが隆盛を極めた時代はベトナム戦争の時代であり、だから「私」がストライプを描くときそれは同時にベトナムを想起している、そしてNegative Forestというタイトルは、森林の消失とともに「枯れ葉剤」をも意味している、ということを書いている。(会場に展示されていた文章の記憶による要約なので、正確でないかもしれないが。)しかし、制作している時にベトナムを想起しているのは中村氏であるに過ぎず、いくらなんでも、出来上がった作品においてストライプがベトナムと直接結びつくとは思えない。(中村氏が無茶を承知でこのような「強弁」をしていることは理解できるし、しなければならないという気持ちも理解出来なくもないが、しかしどう贔屓目に考えてもこれは無茶としか思えない。)どんな、モダニズム的、幾何学的、構成的な作品をつくる作家でも、それを制作する動機には(意識的にせよ無意識的にせよ)、社会的な出来事に対する思いとか、個人的な生活に対する感情だとかが含まれるのは当然のことだし、その作家に対する思い入れが強い観客であれば、そこまで読みとることも可能であるだろう。しかしそのことと、出来上がった作品が「どのようなものであるのか」ということは、厳密に分けて考えられなくてはならない。(中村氏の実際の作品は、たんに馬鹿でかい失敗した抽象絵画にすぎない。)簡単に言ってしまえば、中村氏が作品に添付している様々な社会的事象や個人的な生活史についての発言は、ただの「制作こぼれ話」のたぐいとかわらない。(「彼のことを思って画面にハートマークをいっぱい描きました」というのと「ベトナム戦争を思って画面にストライプを描きました」というのと一体どこが違うのだろうか。)中村氏が、「負け」を承知で何とか絵画と社会的な事柄を結びつけようと果敢な歩みをはじめたことに対しては、ぼくとしても全く心を動かされない訳ではないのだが、しかし、これではあまりにも「策」がなさすぎるし、もっとクールにやらなければ、「負けを承知で突き進んで行く」という美学(特攻精神!!)に簡単にからめ取られてしまうと思う。
●絵画による社会的な発言ということで思い出されるのは、最近亡くなった今井俊満による「広島」や「南京」についてのペインティングだろう。ぼくにはこれらの作品を絵画としてそれほど良いものとは思えないが、これらに意味があるとしたら、「広島」「長崎」「南京」といった、日本が深くかかわっている世界史的な出来事について、日本の画家である「世界のイマイ」が描き、世界にたいして示す(具体的には、世界に対して「売ろう」とする)という現実的な過程にあると思う。しかも、この展覧会に実際に関わったギャラリーGANの販売的な基盤はアメリカにあるそうで、だからギャラリーは「広島」や「長崎」の絵をアメリカの美術館に向けて「売る」ということをしなければならなかったらしい。勿論、日本での展覧会中に右翼によるいやがらせはしょちゅうあったそうだし、それに困ったことなのだが、日本版のパンフレットには「南京」の絵が削除されていたりもする。つまり今井氏のペインティングは、少なくともこの程度の「現実的」な様々な反応を引き起こすことが出来たという意味でアクチュアルであるだろう。しかしぼくは、個人的には絵画がこのような「現実的な過程」に関わることに適したメディアであるとは思えない。(今井氏にしてみれば、自分が20世紀に生きている画家なのだから、当然「広島」や「南京」について描かない訳にはいかないという考えから、画家として素朴に描いただけなのだとは思うが。)
ある個人的なアクションがあり、そのアクションの効果が様々な現実的な過程を経て拡がり、その現実的過程の痕跡を示すことで社会のあり方のある側面が浮き彫りにされ、それによって個人と社会の不可分なあり方が明示される、という意味では、今回の「傾く小屋」のなかでは豊嶋康子の作品(「ミニ投資」)の「あり方」がもっとも納得のゆくものだった。それが面白いかどうかは別の話ではあるが。
●絵画が現実に対して何かしらの効果をもつとしたら、それは絵画作品としての質の高さや強度や、あるいは何かしらの「新しさ」による以外はない。絵画の内容とは、その構築のされ方にあるのであって、それが現実上のどのような出来事を反映しているかにあるのではない。たかだか画家でしかない個人が、それ以上何について責任がとれるというのだろうか。たしかに、世界のあらゆる事柄は繋がっていると言える。世界の裏側のような遠い場所で起こったテロや虐殺に対しても、「私」に全く何の関係も責任もないなどということはあり得ない。だから中村氏が「皮肉な事に、画家が絵を描くたびに、人々が死を迎えてゆく。皮肉な事に観者が絵を見るたびに人々が死を迎えてゆく。このような世界においては、ただ生きるということが人々を死においやるのだ。」と書くのも分からないではない。しかし我々はたんに一個の限定された個人であり、その限界は決して超えられない。つまり「私」が世界に対して行うことの出来る働きかけも、「私」が負うことが可能な責任の範囲も、著しく限られたものでしかない。この限定性を認識せずに果てしなく広く「責任」を感じてしまう人は、その責任のあまりの大きさによって、自分が背負うべき限定された責任をも果たせなくなってしまいがちだ。事実、中村氏の近作の画面における絵の具の置かれ方の無責任さに、ぼくはしばしば呆然としてしまう。もし「画家は、闇を描くか、あるいは画家をやめるかしか道はないのだろうか。」と書くのならば、たんに画家であることをやめればいいのだと思う。(でも、画家をやめたからといって、「個」であることの限定性を越えられる訳ではないし、世界の暴力的な連鎖から抜けられる訳でもない。)