「傾く小屋」展のカタログの塩田純一の文章によると

●「傾く小屋」展のカタログの塩田純一の文章によると、東京都現代美術館はこの3年間、作品を購入するための予算が全くの「0」であるそうだ。しかし、「傾く小屋」と同時にやっていた常設展示は、思いの外充実していた。
●例えば、美術館が出来たときその購入についてちょっとした議論になったリキテンスタインの作品が、ウォーホルの作品と並べて展示してあったのだが、これを観るとこの二人の根本的な違いがよく分かる。ウォーホルの作品は、完全にシステマティックな機械的反復によってつくられており、絵として見栄え良く仕上げようなどという「下心」などとは全く無縁のあっけらかんとした表情が、不気味であり清々しくもある。(それが「どう見えるか」には頓着せずただつくる「手順」のみが「掟」のように作用している。)対してリキテンスタインは、その印刷ドットの使い方にしても、コミック画像からのトリミングの仕方からしても、色彩の対比のさせ方からしても、コミックを引用しながらも、その引用という手つきを示すというより、その画像を何とか「絵画」として成り立たせようとしているのが分かる。リキテンスタインという人は、アメリカのポップアーティストのなかでは例外的にオーソドックスな「画家」としての感性をもっており、実際、かなり面白い画家であると思う。(コミックを絵画化しようとするリキテンスタインの方が、星条旗を絵画化しようとするジョーンズよりもずっと「良い画家」であるように思う。)だから、ウォーホルに比べるとずっと保守的であり、ウォーホルのような気持ち悪さはないとも言える。
●デビッド・ホックニーの版画のコレクションを観て思うのは、ホックニーはある時期までは、マティス的な線描(色彩が使用される時でも、線描をもとにして、それに彩りを加える、という程度の色彩だと思う)をやっていたのだが、ある時期以降(おそらく「ジョイナー写真」以降だろう)ピカソ的な、自由なデフォルメ、自由な色彩による表現へと移行している、ということだ。多分にイラスト的で趣味的だとは言え、あくまで線描を基本としたマティス的な仕事をしていた時期には、作品がかなり充実しているのに、ピカソ的な表現へと移行したとたんに急速に弛緩してしまったように見える。つまりホックニーは基本的に「線」(と言ってもマティス的な線なのだから、線そのものの表情が重要だと言うよりも、紙の色に対しての線であり、何も描かれていない部分に空間を発生させるような線のことだ)の画家であって、色彩を「線描」による限定なしで自由に使いはじめたとたんに、色彩を制御できなくなり、色彩は色彩でなくたんに「記号」のようなものになってしまうのだ。まあ、もともとピカソもそういう画家なのだが、さすがにピカソはもっともっとずっと上手くやっている。
●びっくりしたのは、中西夏之のとても良い作品が展示されていたことだ。ぼくは個人的に、89年に西武美術館(当時はセゾン美術館という名称ではなかった)で行われた大規模な回顧展を観てとても感銘を受けたのだが、画家としての中西氏はそのころがピークで、その後急激に弛緩した自己反復に陥ってしまったように思えた。だから東京都現代美術館で96年に個展をやった時には、もう中西氏に対する興味をほとんど失っていて、観に行かなかったのだった。だが今回展示されていた96年制作の3点のペインティングは、ピーク時に迫るくらいの充実した作品で驚いたのだ。(まあ、80年代後半の最も充実していた時期に近い感じに「戻った」ということで、さらに突き抜けたとか、新たな側面や展開が見られた、ということではないが。)ぼくとしてはほとんど「忘れかけていた」中西氏の作品の良さを、予期せぬ場所でいきなり目の前に突きつけられた訳で、驚いたと同時にとても嬉しかった。
中西氏も色彩を使えない画家であるように思う。中西氏にとって紫は「紫」として、黄緑は「黄緑」として、記号的、言語的に把握されているように見える。おそらく紫は、画面を引き締め、亀裂をはしらせ、穴を穿つ色であり、黄緑は、画面を緩め、不安定にし、彩りを与えるような色として、ほとんど一義的に捉えられているように思われる。(だから、紫が増殖し過ぎると画面は鬱血した肌のようになってしまうし、黄緑が増殖し過ぎると、画面が締まりのない緩んだものになってしまう。)その証拠に、中西氏の画面において、紫も黄緑もいつも一定の同じ色であって、全くバリエーションがない。中西氏の画面においてはただグレーのバリエーションがあるだけだ。(グレーのバリエーションも貧しい。)多分、中西氏にとって重要なのは、色彩でもないし、形態でもないし、絵の具の物質感でもない。それは広く平らに拡がる平面に、細い筆先がポツンと触れる時の触感=筆触である。そして、その細かな触感が画面の様々な場所に散らばって拡がり、筆触がいくつも重ねられ、絡まり合うことで、バラバラだったものが徐々に微かな繋がりを産み出し、さらにある領域としての拡がりも獲得することであるだろう。筆触はまるで空き地に雑草がのびてはびこるように増殖してゆき、図と地とを分かちがたい複雑な空間を立ち上げてゆくのだ。