『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(監督・押井守)を十何

ビデオ屋に、昨日観たビデオを返しに行った時、ふと目にとまってしまった『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(監督・押井守)を借りて、十何年ぶりかで観直した。ぼくがこの映画を初めて観た頃、主人公の「あたる」と同じ高校生だったわけだが、改めて観て、この作品がまさにあの当時の雰囲気そのものと一体であることに驚いた。たんに、現実から遊離したまま永遠につづく「文化祭の前日」を描いていることが、当時のバブル的ポストモダンの状況そのものだというだけでなく、例えば「あたる」とその友人「めがね」たちの言動の妙にシニカルで嫌な感じなどが、ふいに鼻先に臭いの強いものを差し出されたかのように、あの時代の臭気を漂わせるのだ。(もしこの作品が「あたる」とその友人たちのキャラクターや関係をもっと丁寧にかつ魅力的に描くことが出来ていたとしたら、本当の傑作になったかもしれない。余談だが、この作品の「めがね」という人物はやたらと左翼的な語彙を使用する。左翼的な語彙を、意味を空洞化させて使用することが当時はまだ多少なりとも刺激的=批評時な振る舞いだったのだ。隔世の感がある。)東浩紀は『オタクから遠く離れて』で次のように書いている。「つまり『ナウシカ』がモダンで『マクロス』がポストモダンなわけですが、では『ビューティフルドリーマー』は何だったかというと、これは当時着々と進行しつつあったポストモダン化に怯えながら、もう一回モダンの起源を問い直す、すごくアクロバティックな作品なんですね。」これはその通りだろうと思う。(ただ、東氏がここで言っているモダンと、ぼくの考えているモダンとではかなり違うのだが。)『ビューティフルドリーマー』は一見、ポストモダン的な状況をシニカルに肯定しながら生きているようにみえて、同時にそこからの脱出を目論み、試みているような作品であろう。ただ、この作品ははっきりとそれに失敗している。それは押井守という作家は、おそらく決定的に「モダン」が理解できていないからだ。宮崎駿がモダンだというのは、つまり作画と動画の力によってアニメーションを成立させようとしているからだろう。それは、日本のアニメーションが『鉄腕アトム』によって始まってしまったという歴史そのものに対する批判的な態度でもある。『鉄腕アトム』が、物語を優先させるために絵や動きを犠牲にしてしまったことが、おそらく『巨人の星』のような作品に最もグロテスクにあらわれるような、絵や動きの軽視に繋がっている。この流れは基本的に押井守にまで繋がっている。勿論、押井氏は『巨人の星』のようには絵を軽視していない。それどころかその技術力、演出力は高く評価されていると言ってもよいだろう。しかしそれは結局のところ、自分のやりたいことやるための、操作的な技術の問題でしかないのだ。(一方、宮崎氏の野心はひとえに良い絵を描き、よい動きをつくることに賭けられていて、物語の主題や構造についてはもっぱら保守的である。それは、全盛期に比べると画力の衰えを感じざるを得ない『千と千尋の神隠し』でも基本的には変わらないと思う。ここで良い絵、良い動きという時の「良い」という価値が、作家による操作性を越えたものとして、いわば「現実性」として信じられている。良いという価値が現実であれば、物語は別に「夢」でかまわないのだ。)それは押井氏の実写作品の、ほとんど悲惨なまでの薄っぺらさを見ると一目瞭然であろう。そこには実在する人物、実在する風景、実在する物などが映っている(実写)とは思えないほどに嘘っぽい画面の連続があるばかりなのだ。押井氏にとっては視覚も聴覚も、操作可能な記号でしかなく、それを越えてしまう何か(ノイズとか、記号の露呈とか、物自体とか、現実とかいってもよいかもしれないもの)が全く感じられないし信じられてもいない。だから『ビューティフルドリーマー』でいくら「夢はもうたくさん」だから「俺は現実へ帰る」などと宣言してみても、それはただそう宣言しているだけで、実際に帰るべきしっかりした現実などどこにもありはしないし、逆にその夢の迷宮のなかを徹底して生きるという覚悟もない。『ビューティフルドリーマー』は、それ自体としては凄く良く出来た面白い作品ではあるが、しかしこれでは「足りない」のだ。複雑さが足りないし、密度が足りないし、精度が足りないし、強度が足りないのだ。(つまり、夢/現実などという区別が重要なのではなく、そこに現実と呼ぶに足りうる「濃度」、あるいは「他者性」があるかどうかが問題であるようなものを、モダニズムと呼ぶ。)この程度のところでいくらアクロバティックにごちゃごちゃやってても、何も突破することは出来ない。夢から覚めたと思ったら、さらに悪い夢に突入していただけだ、ということの繰り返しにしかならないだろう。とはいうものの、この映画が公開された84年当時、ぼく自身『ビューティフルドリーマー』的なものの内部にいた(今もいる?)わけだ。だからこそこの映画に強く惹かれたし、それと同時にそこから脱出するために、モダニズム的な芸術が必要とされたのだろう。ほくにとってそれは、(宮崎駿ではなく)ゴダールだったり相米慎二だったりしたのだが。