●ドローイングのための「紙」を買いに、近所の文房具屋まで行く。本当は、雨が降っている時に「紙」を買いには行きたくない(濡らしてしまうから)のだけど、「描くもの」が何もなくなってしまったので仕方がない。とりあえず、スケッチブック2册(白がきつすぎる、ツルツルの安っぽい画用紙で、アートっぽい水彩紙とかではない、いかにも文房具屋で売っているようなやつ)と、A4サイズの茶封筒と墨汁を買って、ビニールの袋に入れてもらい、口をセロテープでしっかりととめてもらう。ドローイングで使う筆(毛筆)も、いろいろなものを試してみたのだが、結局、この文房具屋で「写経」用として売っている一本800円の筆が一番手に馴染んで使いやすいので、それを使っている。我ながらなんて「安手」の画家なのだろうと思うのだった。
●さらに本屋とスーパーに寄った後、左手で傘をさし、右手に重たい荷物を下げて、ぼんやりと物思いにふけりながら、大通り沿いの歩道を歩く。別に深刻に考え込んでいるわけではないのだが、意識が「考え」のなかにすっぽりと入り込んだ状態のままで歩いていると、突然、その「考え」の殻を強引に破るように、外から、交通量の多い車道の騒音が頭のなかに流れ込んで来て、さらに、暗くなりかけの雨で湿った風景(湿った地面が、点きはじめたばかりの照明やネオンでキラキラ光っている)が、異様なほどに鮮明に眼に飛び込んできたのだった。その感覚があまりにも鮮明なので、一瞬、自分が今どこを歩いているのか分からなくなる。
●自分の手が引く線は、やはりどうしたって自分の「手癖」のようなものに強く支配されてしまっている。それでも、例えば100枚くらいドローイングを描けば、偶然にでも、自分の手が、ふと、思ってもみなかった動きをして、思ってもみなかった線が引ける瞬間が一度くらいはある。たとえ偶然だとしても、実際に自分の手がそのように動いたということは事実で、その事実が、ぼくの「手」が出来ることの幅をほんの少しだけ広げる。というか、このようにしてしか、自分の「手」の幅を広げることは出来ない。(この時、自分の手が思ってもみない動きをした瞬間を、ちゃんと意識が捉えている必要がある。)
●渋谷のシネ・アミューズで、風間志織の『せかいのおわり』の公開がはじまったみたいだ。これは、とても良い映画だと思う。(試写で観た時の感想http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20050721)