横浜美術館レクチャーホールで『美の美』(吉田喜重ほか)

横浜美術館レクチャーホールで『美の美』(吉田喜重ほか)の、ダ・ヴィンチ篇、蕪村篇、宗達篇、フェルメール篇を観て、帰って、ビデオで、マネ篇、セザンヌ篇、ゴッホ篇を観た。(『美の美』は、吉田喜重が74年から4年間かかわっていたテレビの美術ドキュメンタリーのシリーズで、吉田氏はこの間、94本分もの構成・演出を手がけた。)京都のCINEMA ENCOUNTER SPACE(http://www.geocities.jp/positionwest3/index.htm)という映画の上映企画団体が、吉田喜重の特集上映を三月の終わりに企画していて、そのパンフレットに『美の美』についての文章を書くことになっていて、ボッシュ篇を中心に書いてほしいということで、12日のポレポレ東中のでの上映を観に行ったのだけど、正直、ボッシュ篇を観ただけでは掴みきれないというか、ちょっとピンとこない感じだったので、このシリーズを少しでも多く観てみたいと思って横浜まで出掛け、そして帰ってから、上映団体の方から送って頂いたサンプル版のビデオを何本か観たのだった。で、何本も観ていると、だんだん面白くなってくるのだった。横浜美術館で上映された4本(これはどれも、京都では上映されない)のうち、一本は演出が吉田氏ではなく、一本は、ナレーションの声が吉田氏ではないのだが、吉田氏が演出・構成していない宗達篇は、全く凡庸というか、何の工夫もないつまらないもの(寝不足だったので5分くらい寝てしまった)なのだが、吉田氏が演出した蕪村篇でも、ナレーションが違う人だとそれだけでかなり違和感がある。それで、このシリーズがいかに「吉田喜重の語り(声)の調子」によって制御されているのかがよくわかったのだった。だいいち、吉田氏の書くコメントは、断定を徹底してさけるために「〜かも知れません」「〜と言えなくもありません」が異様な(滑稽な)くらいの頻度で繰りかえされていて(小津のセリフの、「あれはどうだったんだ」「ああ、あれはよかったんだ」「そうか、よかったのか、それはよかった」(うろ憶え)みたいなリズムをつくっているのだが)、この言い回しが吉田氏によって語られるのでない場合は空疎になってしまうように思う。
今日の上映で驚いたのは、フィルムのコンディションの素晴らしさで、ポレポレ東中野で上映されたDVD版とは、フィルムとDVDとではこんなに違うのか、というくらい、横浜美術館の16ミリフィルムは画面がクリアーできれいだった。(CINEMA ENCOUNTER SPACEの代表の方からのメールによると、横浜美術館が持っている『美の美』の16ミリプリントは80本分ほどあり、ほとんど上映されていないはずので状態はよいだろう、ということだった。)ダ・ヴィンチのデッサンを撮ったショットなど、細かい細部までくっきりと見えていたし、特に良かったのはフェルメールの絵の撮影で、おそらく、普通に絵画を撮影する時の、画面の全ての場所に均等に光が当たるようなオーソドックスなライティングではなくて、絵の具の質感が際立つような光の当て方で撮られていて、それがフェルメールの絵を撮影するやり方としてすごく合っていたのだと思う。絵の具が粒だって、かっちりとついているのが、その肌触りの感触みたいなものまではっきり見えて、極端に言えば、美術館で、肉眼で実物を観るよりも「フェルメール(が実現していること)」が明確に見えてくるような感じなのだ。(こういう光の当て方は、それ自体ひとつの「解釈」であり、例えば、画集をつくるためにスチール写真を撮影するという時なら、成り立たないとは思うけど。)あと、「モナリザ」は、撮影の為のライトを当てることが許されず、長時間露光のコマ撮りで撮影されたそうなのだが、そのせいか、絵というより「物」として写っていて、絵画のこういう「あり様」も、肉眼で観たのでは決して見えてこないものだと思う。コンディションが良いと(勿論、撮影も良くなくてはいけないのだろうけど)、フィルムはここまでの表現力を持つのだなあ、と、改めて思った。(余談だけど、ヨーロッパの風景はクールに撮影されているのだけど、蕪村篇で、日本の風景になると、とたんに風景が劇映画っぽく(これからドラマがはじまるっぽく)なって「情感」が出てしまうのは何故なのだろうか、と、ちらっと思った。木の葉が風に揺れるというようなショットでも、ヨーロッパの風景だと即物的なのだが、日本の風景はメロドラマっぽく感じられてしまう。あ、『秋津温泉』だ、みたいな。)