『対論・彫刻空間』(若林奮/前田英樹)で、若林奮が...

●『対論・彫刻空間』(若林奮/前田英樹)で、若林奮がとても興味深い発言をしていた。
《私の日常はほとんどすべての時間は人間が作った工業物を利用し、その中で暮らしています。人間の作った世界が形成され、その中で様々な出来事に出会うし、美術もそこで発生し、続いて存在しています。このような状況を承知した上で、私は自然を観察し、考察し、彫刻をつくろうとします。もし人間の作る世界と自然とをはっきり区別する線が引けたら、私は彫刻を考えることとしては自然を選ぶことになります。人間の世界は不要なのです。しかし、二つを分ける線ははっきり引くことはできませんし、不明瞭にする必要もあるのかも知れない。しかし、境界線から離れればはっきりしてくる。私が彫刻を考える時に採る姿勢は、人間に興味をもたないようにすることです。人間以外の世界がはたしてそのまま自然がどうかは分かりませんが、境界線を観察することはできます。私は日常の生活をしながら彫刻を考え、つくりますが、そこに何かしらの飛躍があるのは事実です。日常の生活そのものは彫刻とはなりません。それでは日常生活は彫刻を考える上で何なのかと考えますと、彫刻の基準になるものです。これは日常の生活の方からのことではなく、彫刻の方からの言い方ですが。》
《私は彫刻を考える時、向こう側には人間を想定しません。》
ピカソはデッサンでスターリンの絵を描きます。すると、これは一体何だ、というような話になるわけです。このデッサンはある人たちの間では不評だったようです。好評と不評との間の幅はピカソが持つ領域であって、画家の考えと能力に関係する。しかし、ピカソはこのような機会を得たわけです。そこに注意を向ける必要がありそうです。いずれにしても、人間の世界で始まり、終わっているように思えるのです。ところが、マチスは一見したところいつもそういうものからはずれていて、私が学生の頃には、プチ・ブルジョアの絵画というように言われていました。ピカソはいわば社会の一員として仕事をしているけれど、マチスの評価は低くなる。その頃の私にはそういうことが説得力のある話ではありました。人間の作り出した世界の中での普遍的な話です。》
●ここで若林氏が述べていることはきわめて重要で、かつ複雑で解りづらい話で、決して要約することなく、その言いよどんだり回りくどかったりすることのニュアンスも含めて、正確に読み取られるべきものだと思う。(ここで若林氏が、「自然」といったり、「向こう側には人間を想定」しないといったりすることは、おそらく、岡崎乾二郎がカントを引きつつ「月の住人」といったり、最近では「火星の生物」みたいな話をしたりすることととても深い関係があるようにみえる。しかし、関係ありつつも、この「言い方の趣味」の違いには、隔たりもあるように感じられもするのだが。)
●若林氏のピカソに関する発言を読みながら、ぼくはマネのことを考えていた。マネはピカソ以上に「人間の作り出した世界の中」で「向こう側には人間を想定」して、自らの仕事を組み立てていた画家だと言える。古典としてティツィアーノを参照しつつ、そこに当時として最新流行の現代風俗の衣をかぶせ、スキャンダラスな効果を狙う、というような意味で。(そしてその効果は、当時形成されつつあった「都市の浮遊者たち」という社会的な階層へ向けられ、それによって支えられている。)そして、普仏戦争パリ・コミューンに参加する、といった現実的(社会的)な行動も含め。まさに「人間の世界で始まり、終わっているよう」な作品であるかのようにも思える。しかしその、美術という制度を充分に意識し、現代風俗にまみれもしているきらびやかな作品から(つまり、人間たちが互いに「同期する」ためにつくりだした虚構(=権力)としての「現代(現実)」に充分に目配せした作品から)みえてくるものは、実は「同期する」ことの不可能性(つまり、「現代(社会)」という皆に共通する基底面が成立することの不可能性)であり、つまり「人間の作り出した世界」の「外」の感触なのだ。(このような感触は、「草上の昼食」や「オランピア」のような、いかにも「狙った」作品よりも、「バルコニー」や「サン=ラザール駅」、「フォリー・ベルジェールの酒場」のような作品からこそ、強く感じられる。)しかしそれは、「自然」と呼ばれるものとは、またちょっと別のもののようにも思えるのだが。