08/01/07

●お知らせ。今日発売の「新潮」二月号に、ぼくの書いた青木淳悟論「書かれたことと書かせたもの」が載っています(分量はページにして21ページ)。あと、ぼくの書いた青木論が載っているのは「新潮」なのですが、「群像」の二月号には青木淳悟による「S潮社にべったり」というエッセイが載っていて、笑えます。(青木淳悟はエッセイでも記述が変で面白いです。)このエッセイによると、青木氏は今、週五で「S潮社」に通って小説を執筆していて、この「G像」のためのエッセイも「S潮社」社内の一室でこっそり書きだしたところ、「S潮」編集部の担当者がやって来て「Aさん、K談社G像の締め切り今日だそうですね」とか言われて、(T・ヤスタカさんからの贈答品であるらしい)「高級チョコレート」とコーヒーを差し入れられた、とか。S潮社社内で書かれつつあるAさんの新作を楽しみにしています。ただ、念のために書いておきますが、ぼくは「S潮」編集部の人から「Aさんについて書いてくれ」と言われて書いたわけではなく、自分で「青木淳悟について書きたいんですけどどうでしょうか.....」と言って書きました。
●引用、メモ。フーコーのビンスワンガー『夢と実存』序論における、夢と想像力と(私の)死について。田崎英明「死、ことば、まなざし」(『無能な者たちの共同体』)より。
フーコーはいう、夢は眠りを死の光のもとで目覚めさせる、と。夢は人間学の眠りからの目覚めなのではないだろうか。あるいは、「人間の死」とは、人間学の見る夢なのかもしれない。フーコーは夢を経験のひとつの形式として捉えることを力説する。だがそれは、経験する主体が喪われた経験である。たしかに、この時期のフーコーは「実存」という名で、この経験の主体を名指してはいる。しかし、実存は、その深いところで、すでに死んでいるのではないだろうか。まるで、自分の死にいまだ気づいていないかのように、経験され、眺められる世界。》
《私たちの知覚の対象は、それ自体として存在している。それは私たちの空想の産物という意味でのイマージュではない。たしかにそこに存在している。だが「存在している」とはどういうことか。それは、あたかも、万物が自らの存在を夢見ているかのようなのだ。「存在する」ということと「夢見る」ということが、ほとんど同義であるような、想像力論である。
夢見ること、それは、世界の自己構成の根源的な働きなのである。》
《夢において、すべては「私」であるという。つまり、夢において夢見る存在は孤独なのである。この孤独は、人間的実存が「世界的存在」であるということ、この世界へと人間が開かれていることを意味している。人間が世界へと開かれているという根源的な経験は、他者とこの世界を共有しているという共存在の経験へと導きはしない。そうではなくて、この世界とこの実存との一致、この世界そのものである実存の自由な投企が、孤独において開示されるのである。もちろん、この世界には、さまざまな事物が存在し、また、他者も存在する。しかし、他者と共有する覚醒時の世界よりも、夢見る世界の方が、あるいは、知覚の奥底でうごめいている想像力の世界の方が、より根源的なのである。つまり、私の死後の世界こそが私にとって、もっとも根源的であり、私の自由が十全に実現している。》
《自分がすでに死んでしまっていることに気づかないか、あるいは、そのことを忘れてしまっているかのようにして、自分自身を模倣する。存在の根本には、このような時間の間違い、錯時、つまり、アナクロニズムがあるのかもしれない。夢や、そして、そもそも想像力とは、死の先取りではない。そうではなくて、このようなアナクロニズムなのだ。なぜ、無ではなくて存在があるのか。それは、夢見ているからである。自分がすでに死んでしまっていることに気づかずに事物は夢見ている。夢の存在論は、したがって、アナクロニックな時間性によって特徴づけられる。
人間学は、夢を通じて事物の存在に触れてしまう。それは非人称の「経験」といってもいい。そこには、模倣する主体の死と引き換えに模倣が生じるのである。》