●暑くて昼間は部屋にはいられないので、毎日、ファストフード店や喫茶店を夜遅くまで転々とする。帰っても、部屋はまだ昼間の熱がこもっていて眠れない。朝方になると、すこし気温が下がるので、午前五時くらいになって、ようやく眠れる感じになる。昼前くらいまで眠る。
●「岬」論、今日書いたところまで字数を確かめたら、ちょうど一万字くらい。ゆっくりすすむ。
●夜中に『おじさん天国』(いまおかしんじ)をDVDで観る。何度観ても、ぼくはこの映画がすごく好きだ。人間関係(性的関係)のゆるーい閾の低い感じが、そのまま、現実と夢、生と死との閾の低さとなり、両者が共存するかのような世界を生む。
釣りをしている甥のところにいきなりおじさんがあらわれ、居候をはじめる。甥は、ダイオウイカを釣ることを目指している。おじさんは、眠ると死んだ美女とセックスする悪夢をみて、知らないうちにペニスを血が出るまでしごいてしまう。だからおじさんは眠らない。おじさんは眠らないからいつも眠くて、常に現実と夢の境にいる(同時に、夢の女もまた現実の場面に顔を出してくる)。睡眠不足だと、ペニスは勝手に勃起する。眠ることへの抵抗の意味もあって、おじさんは周りにいる女性と手当たり次第セックスする。おじさんは射精しそうになると、相手の女性の体に赤いマジックインキで自分の名前を書く。それは眠り−死の美女へと落ちこまないように自分がこの世界(生きた女性)に留まるための足がかりのようなものであり、同時に自身の手で書かれる墓碑銘のようでもある。しかしとうとう、眠らないためのドリンク剤を買いにに出た深夜のコンビニで、ウインドー越しに(現実世界で)夢の美女と眼を合わせてしまう。夢の女から逃れるように、自分のペニスをしごきながら彷徨うおじさんは、神社で射精した時にペニスを蛇に噛まれて死んでしまう(しかしこの場面は半ば夢のような感触もある)。おじさんの死体を警察に確認に行く途中、甥とその恋人は地獄へと迷い込み(この「地獄」は普通のラブホテルだ)、おじさんを(それと、ついでに彼女の前の恋人も)救い出す。生き返ったおじさんは、夢の美女を受け入れ、女と二人で旅に出る。前の恋人は、中途半端だった関係を清算し、彼女との別れを受け入れる。甥と恋人はダイオウイカを目指し釣りをつづける。
夢の世界の死んでいる女が現実世界にも当然のように顔を出し、地獄は普通の幹線道路で繋がっているラブホテルであり、閻魔大王はそこの清掃員で、死者はそこからの帰還が可能で、女たちは皆、簡単におじさんとの関係を受け入れる、という、この映画全体を貫く閾の低さ、境界を簡単に越えてしまう感覚は、世界からハードな側面や高い緊張を排除し、ゆるく鷹揚なものへと解きほぐしてゆく。しかし、世界は完全にぐだぐたになり、ひたすら緩んでゆくのでもない。この世界の裏には常に死への恐怖や死者への思いが貼りついている。身体全体の制御から外れたペニスが勝手に勃起−緊張してしまう(それを血が出るまでしごいてしまう)という感覚は、世界全体が決してゆるいものだけには還元されないことを示しもするだろう。そして、一旦地獄を通過したおじさんは、自らの死(というハードな現実)を受け入れるかのように、夢の美女を受け入れる。前の恋人もまた、彼女との別れを受け入れるし、甥も、彼女との関係を改めて建て直すことになる。しかしそれらを受け入れるためには、まず、ゆるく鷹揚な世界が基底的空間として必要なのだ。
おそらくこの作品は最強のアンチホラーであり、高橋洋的世界の真逆にある。