●『化物語』をオーディオ・コメンタリー付きでもう一度全話観てしまった。たんにスタッフやキャストによる裏話という形ではなく、キャラクターの存在に頼った二次創作的な付け足しでもなく、本編の裏にもう一つ別の流れがあって、そこまで含めて作品になっている。このすごい作り込みに驚いた。特に、ガードの堅いキャラクターであるつぱさが、オーディオ・コメンタリーの場においてはじめて(素の状態で)こよみに対してある種の解放を得るという点に、ちょっと感動した。「つばさキャット」の物語はオーディオ・コメンタリーにおいて真に完結する、という感じ。いや、「つばさキャット」のエピソードだけではなく、全編を通じて本編とオーディオ・コメンタリーという二つの流れが同時進行することではじめて、ひたぎとつばさの裏表の関係が完成する感じ。
褒めているのか貶しているのか分からない言い方になってしまうけど、オーディオ・コメンタリーのあんなに寒い会話を、堂々と、しかも長時間通して、がっつり演じきって成立させてしまう声優のパフォーマンスの力というのはすごいものだなあと思った(テキストとして読んだら「えーっ(げんなり)」という感じだと思う)。アニメの喋り(会話)というのは、ほとんど伝統芸能と言っていいんじゃないかと思うくらい独自の型があって、しかもそれが日々、さらに独自の方向へと洗練されていっているみたいだ。この、(お笑い芸人などによる掛け合いとはまったく別種の)あまりに独自な(独自過ぎる)発展が、それ自体としてどうなのか、ということはあるけど。それはとても不自然なもので、実際にあんな喋り方で会話している人がいたら気持ち悪いのだが(この感じが多くの人をアニメから遠ざけている気もする一方、もはやこっちの方が自然だと感じる人もいるんじゃないだろうかとも思う)、とはいえ一つの型として洗練の度合いはすごいもので、オーディオ・コメンタリーの会話における、声の作り方や声質の対比、スピードやタイミングや強弱や掛け合いや逸脱は、まるで(内容はともかく…なのだが、そこを括弧入れ出来さえすれば)精度の高いダンスを観ているかのようなキレと複雑で高度な運動性が感じられる。いわゆるアニメっぽいという感じの不自然な声優喋りを排除しようとする作品もあって、それはそれですごくよく分かるのだが、しかし、ここまで徹底していると、これはこれですごいと思う。いわゆるオフからの声なので、絵に拘束されないし、物語からの拘束もきわめて少ないで、会話の動きの自由度が増していて、オーディオ・コメンタリーではその感じが一層増強されている。