●目が覚めたら掛布団を全部撥ね退けていた。目が覚めても眠ったままのような陽気。
●昨日、なびす画廊でお会いした高木秀典さんから、「古谷さんの顔が誰かに似てるとずっと思っていたんですけど、誰だか分かりました、娘です」と言われた。高木さんの娘さんは確か生後五ヶ月くらいのはず。
●『たまこまーけっと』は一話から十話まで全部観ているのだけど、エンディングの曲の歌詞の一部でどうしても聞き取れないところがあった。その、「トラヤ、テナオラ、ナイキ、ケント」としか聞こえなかったところが、「ドライヤーで直らない機嫌と」だということがわかった。ああ、そうなのか、という納得感と、分かっちゃったなあ、というがっかり感。「トラヤ、テナオラ」という謎の響きがとても魅惑的だったのだけど。
●『ギッちょん』(山下澄人)に入っている「水の音しかしない」を読んだ。「ギッちょん」に比べると、これはいまひとつかなあという感じ。内側から働く、形づくり動いてゆこうとする力と、外側から働く、形を制御し整えようとする力とが、中途半端なところで妥協しているような気がした。初出をみたら収録されている三作で一番古いので、この時点ではまだ、小説という慣れない形式への遠慮のようなものが働いていたのかもしれない。でも、その分、親切で分かり易いとは言えるかもしれない。ただ、この次がすぐ「ギッちょん」なわけだから、その跳躍力がすごい。「水の音しかしない」から「ギッちょん」の間で、何かが吹っ切られた、という感じなのだろうか。
●つづいて、「トゥンブクトゥ」。これは完全に「やられた」という感じ。読まなければよかったとさえ思った。自分が今書いてる小説の続きが本当に書けなくなるかもしれない。いや、無理やりにでも書くつもりだけど。ここで強引につづきを書かないと、もう自分は小説は書かなくてもいいのかも…、という感じになってしまうかもしれないので。
今まで、山下さんがやっていること(演劇にしても『緑のさる』にしても)と自分がやりたいと思っていることが近いとは思ったことはなかったのだけど、「ギッちょん」を読んで、ヤバい、案外近いのかも、と思い、「トゥンブクトゥ」で、すげーヤバい、かなり近い上に「地肩が違うだろ」というのを見せつけられた感がある、と思ったのだった。いや、ぼくはぼくなりに地味にがんばりつづけるけど。