●昨日の日記で、自然に成長するネットワークのほとんどがべき乗則にのっとった度数分布をみせるスケールフリーという構造をもっていることを「退屈だ」という風に書いたけど、それはあくまで結果に対する失望(世界ってそんな風になっちゃってるのか…トホホ)であって、それを導き出した科学に対する失望ではない。失望どころか、そんなことを導きだせたことはとんでもなくすごいことで(九十年代までは世界中の誰一人としてそんなことは知らなかったわけだし)、多くの人がそれを認識することで社会は大きく変わるだろうし、既に変わりつつあるのだろうと思う。
ぼくがいくら「退屈だ」と思ったとしても、法則を批判することは出来ない。あるいは、批判出来るとしたら別の法則によってだけで、それは科学によってしかもたらされない(批判の意思によってではなく、この世界そのものに聞いてみるしかない)。だからぼくは失望とともにそれを受け入れるしかない。受け入れた上で、それでも退屈でない何かを考えようとするしかない。
●「正しい」ということのどうしようもなさについて、ひも理論の研究者ミチオ・カクは次のように書いている。理由は分からないが「この宇宙」はそのようなものとしてあり、我々はそれを強いられている、と。
≪(…)アインシュタインはかつて、「量子論は、成功を収めるほど、ばかげたものに思えてくる」と言った。これらの奇妙な法則の出どころは、だれにもわからない。説明のない仮説にすぎないのだ。量子論には、ひとつだけ言えることがある。正しいということだ。その精度は一〇〇億分の一のレベルまで確かめられており、量子論は史上最高に成功を収めた物理理論となっている。≫
(『2100年の科学ライフ』)