●実験には二種類あると言えるのではないか。一つは、考え得る限りでの様々な悪意ある敵対者がいることを想定して、それでも持ちこたえられるように、徹底的にガードを固めた形で行うもの。もう一方は、敵意や悪意というものを一切想定しなくていいような閉じた状態であるからこそ可能な、リラックスした場で行われるもの。前者が科学で、後者が(ウィニコット的な)ひとり遊び、と考えることができる。前者は、どのような悪意にも打ち勝つ強さをもつもの。後者は、どのような悪意をも想定していない弱さにこそ意味があるもの。
科学の圧倒的な強さに対して、フィクションはその弱さにこそ意味があるとは言えないだろうか。ちょっとでも突っ込まれたらひとたまりもない弱さのなかでしか実現しないこと。そこに何か意味はないだろうか。あるいは、後者のものが自ずと前者へと育ってゆく、何かしらのアルゴリズムはあり得ないか。