2023/08/15

⚫︎最近思うのだが、二十世紀(後半)美術をいつまでも「現代美術」と言ったり、二十世紀(後半)思想をいつまでも「現代思想」と言ったりするのは、流石に二十一世紀の五分の一が既に過ぎた今ではズレてきていて、違うのではないか。もちろん、新しければ良いとか、二十世紀のものはもう古くなったとか言いたいのではない(ぼく自身、どうしようもなく二十世紀に根を持つ人間なのだし)。ただ、それを「現代」とするのは違うのではないだろうか。たんに、二十世紀美術とか二十世紀思想とか言えばいいのにと思う。

なんというか、それを「現代」と言い続けることで、それに次いで、それとは異なる在り方で存在しているはずの「実質的な現代」を抑圧して(見えなくして)しまうのではないかということが気に掛かっている。

(文系的な知において「アカデミズムがそれを扱うのを躊躇う」ということが「現代」と呼ばれる何かの条件だと思っている。)

(追記。とはいえ、今ではアートとアカデミズムと資本とはほぼ一体化した共犯関係を作っているとも言えるので、このような考え方自体が「現代的ではない」のかもしれない。)

あるいは、現代は、「現代」という概念がもはや過去になってしまった「ポスト現代」というべき時代だ、ということかもしれない。「現代」という語はおそらく、「近代」に対する「現代(=ポスト近代)」で、だから実質的な現代は、「現代」に対する「ポスト現代」ということか。新しいものにはもう「現代~」という接頭語はつかず、「現代」という語(概念)が今ではレトロな響きを持つようになった、のだろうか。