2023/12/29

⚫︎主要なSNS、ニュースサイト、動画投稿サイトが、軒並み、普通のコンテンツや記事と広告とを同じフォーマットで表示するデザインに(いつの間にか、そうであることが当然であるかのように)なっているのはとてもヤバいのではないかと思う。申し訳程度に「広告」とか「スポンサー」と小さな文字で書かれてはいるが、本来なら広告は一目で広告と分かるようにデザインされているべきではないか。

慣れればすぐに見分けられるようにはなるが、そういうことではなく、デザインの思想として、運営側の思想として、それを受け入れていいのか。そのメディアを運営する企業が、そのような思想を堂々と肯定してることになるが、それでいいのか、ということなのだが。

詐欺的というのは言い過ぎかもしれないが、「迂闊な人が騙されても自己責任」みたいな価値観を肯定する思想がデザインに表れてしまっていて、それがアングラで怪しいサイトならともかく、多くの人が利用する主要なサイトでそれが自然であるかのようになされているのは、そう考えて当然みたいなコンセンサスが広く成り立っているかのように利用者を無意識に教育していて、世界レベルで人の心を蝕んでいるように思う。

これって別に政治的な大問題などとは違って、現場の人たちが変えようとさえ思えば簡単に変えられることなのだと思うし、変えたからといって広告主からクレームが来る(広告収入が減る)というような話でもないのではないか。むしろ、嫌な感じの広告の入り方は、広告される商品にとってもマイナスにしかならないと思うのだが。

ネットを使うたびに、多量の「迂闊な人が騙されても自己責任」的思想によるデザインに触れることになるのが、少なくないストレスだ。

多量に送りつけられるフィッシングメールなどもそうだが、そういうものに慣れてスルーすることは容易だが、しかし「慣れて」しまって良いのか、こういうものを平気で放置してある環境に対して(それが人の心に与える悪影響について)もっとちゃんと怒りを感じるべきなのではないか、と思う。

(「バズレシピの人が味の素からお金もらって案件動画作っていたら嫌でしょ」という例を挙げようと思ったのだが、普通に味の素の案件動画作ってるんだな…。逆に、ぼくはなぜこのことに抵抗を感じるのだろうか。このことと、新潮社から出る本の書評を「新潮」編集部から依頼されて書くこととは、何によって違うと思っているのだろうか。その本が、講談社文藝春秋から出ていたとしてもまったく態度が変わらないという確信が自分の中にあるからだろうか。しかし、バズレシピの人だって、味の素の案件を狙って味の素を激推ししいるわけではなく、自分自身の信念と確信によって推しているのだろうし、そしてそれは「案件」以外の他の多くの動画を見れば充分に納得できるし、その信頼はお金や企業からの依頼の有無によって揺らぐことではないだろう。書評が決して広告ではなく自律したコンテンツであると言い切れるのと同様に、案件動画であったとしても決して広告ではなく自律的コンテンツなのだと言い切れる態度で作られるのならば、企業からお金をもらっていても問題ないのかも。案件以外の動画のクオリティとそれへの信頼が、案件動画のコンテンツとしての自律性を保証している、ということか。)

(それはつまり、多くの案件動画がそうではない、ということでもあるが。)