2024/05/25

⚫︎フォーマリズムは持たざる者のための思考だ、とぼくは考える。熟考された形式的思考と、思考を現実に結びつけるトンチ的な冴えがあれば、手近にあるものだけを使って何かしらの「観るに値する」ものを作ることができる(はず)。今回、6月6日から始まるOGU MAGの展示のテーマの一つというか、裏テーマに「安く作る」ということがある。

若い時は気合いも入っているし体力もある。ぼくも、大学を出てから10年くらいは、150号や100号のキャンバスに油絵の具で制作していて、毎年発表もしていた。だがその状態を続けるには、二つのルートしかない。(1)成功して作品が売れるようになること(あるいは単に経済的に豊かになること、大学に職を得るとか)。(2)バイト(賃労働)を増やして制作費を捻出すること。あからさまに(1)を狙うのは嫌だ、あるいは、狙って努力しても(1)は訪れないとすると、(2)しかない。しかし、それを続けると疲弊するし、ある時ポキッと折れたりしてしまったりする。

色々な人を見てきた。すごく旺盛に制作・活動していたのに、ある時からポキッと折れるようにやめてしまう人。才能も意欲もすごく豊かだったのに、ある時期から目に見えて「ぬるーい作品」を作るようになってしまう人。

生きて行くのは大変だし、人生には色々ある。意欲を持って制作できる環境を維持することはとても難しい。そもそも、「芸術」を信じることを続けることがまず難しい。

だから、(経済的に、あるいは状況的に)生きて行くだけで精一杯というような場面でも、そんな状況でもなお「身の回りにかき集められる素材」だけを使って、いい加減なやっつけ仕事や、あからさまにぬるくなってしまったような仕事には見えはない、「まともに観るに値するなにものか」を作るにはどうすれば良いかを考える必要がある。それが芸術(制作)の持続可能性であり、フォーマリズムはそのためにあると思っている。

(もっと緩く言えば、なんとか生きて行くことはできているが、絵の具を買うためにはバイトを追加するという負荷が必要だというときに、その「負荷」の余裕分を芸術的負荷(?)に回すために、バイトを追加するという負荷を自分にかけなくとも制作可能な何かを考える、というようなこと。)

⚫︎展示予定の作品は、8年前に吉祥寺の「百年」で展示した「人体/動き/キャラクター」シリーズの延長線上にあるものと、新しい「文房具絵画」のシリーズだ。前者の作品はそれでも、キャンバスにホルベインの油絵の具で描いていたり、ワトソンのような水彩紙に、ウィンザー&ニュートン透明水彩とか、ホルベインの100色入りアーチスト色鉛筆などで描いたりしていて、小型でコンパクトであることにより低予算であるとはいえ、画材屋さんで売っている、絵を描くためのちゃんとした素材で作っている。

しかし「文房具絵画」のシリーズは、画材屋さんではなく文房具屋さんで売っているものを素材としており、単価のレベルで値段が一桁違う。これを使ってなんとか「観るに値するなにものか」を作るということが、一つの重要なチャレンジとしてある。ただし、素材が百均の店でも買えるような「いろがみ」なので、湯水のように使うことができる。つまり試行錯誤が無限にできる。持ち運びも便利で、アトリエに行かなくても、空いた時間は常に「いろがみ」を手にして何かしら試しているということが可能だ。

それでも、文房具は文房具なので(高級品でもないし)、それを用いて「観るに値するなにものか」をつくるのは簡単ではない。2018年に『虚構世界はなぜ必要か ?』という本を出しているが、その表紙には井上実さんの作品を使わせてもらった。その時点での自分の作品は、自分の本の表紙にしたいと思うものにまでは至っていなかった。だが、今年出る『セザンヌの犬』の表紙は、自分の作品を元にしてデザインしてもらった。なんとか自分の本の表紙にしたいものになった。