昼過ぎから雪。雪の降るサーッという音は、放送終了後のテレビのノイズみたい。こんな足元からジンジン冷えるような寒い日は最近なかったのに。雪の日の空は空白のように白い。天空の大きな穴。しばらくすると、雨にかわった。

1, どのようなイメージも、何かしらのメディア抜きでは我々に届かない。(純粋なイメージには決して到達出来ない。)
2, だからイメージの質の多くの部分は、そのイメージをもたらすメディアの特性に規定されてしまっている。
3, 近代的な芸術のひとつの大きな流れでは、表現されるイメージを積極的にメディアの特性によって規定してしまおうという主張があった。例えば、絵画は絵画でしか表現できないものを、表現すべきだ、とか、もっと極端に、絵画は「 絵画 」というイデアのみを表現する、だとか。勿論それは、転倒した思考でしかない。イメージはたしかにメディアによって規定されてしまうのだけど、イメージは決してメディアの内部にあるのではなく、その外側に存在しているのだから。しかし、そのような転倒を転倒として徹底的に生ききってしまった(やりきってしまった)ということの「 凄み 」は肯定されなければいけないだろう。でも、我々がそれと同じ事をする訳にはいかない。
4, 感覚の直接性というものを信仰してはいけない。我々の身体そのものが既にひとつのメディアであるし、身体は幾つもの異なるメディア(視覚、聴覚、触覚、等)の複合体としてある。視覚によって「 私 」にもたらされるイメージと、触覚によって「 私 」にもたらされるイメーは、異質のものであるし、両者は隔たっている。「 私 」は複数の異なるメディアからの異なるイメージを併置=モンタージュすることによって世界像を構成する。
世界は、ア・ブリオリに存在するのではなく、複数の異なるメディアから届けられた、異質のイメージ同士の接続、接続し損ない、落差、矛盾、等によって構成されるものだ。(そこに、より抽象的な次元の「 別の 」イメージが生まれている。)
5. しかし、確かに物に(世界に)直接的に触れている、と感じられることがある。それは、もしかするとイメージになりきらないノイズのようなものに触れているのかもしれない。イメージに上手く納まりきらないノイズが、異質なメディアによる異質なイメージを不意に結びつけてしまう、という役割を担っているのかもしれない。ノイズを特権化しても仕方がないが、ノイズを切り捨ててしまうことだけは、絶対に避けなければいけない。ノイズを感じることのできる繊細さと、ノイズにたえることのできる強靱さ。
6, 複数の異なるメディアからバラバラに送り届けられてくる異質のイメージが共存し、それらが、結びついたり、反発したり、ズレたり、出会ったり、出会い損ねたり、衝突したり、短絡したり、すること。おそらくそれが、出来事、というものなのだろうと思う。
ぼくにとって絵画を制作するということは、視覚と触覚という異なるメディアによってぼくに届けられた異質なイメージの偏差=隔たりそのもののなかへ入り込むということなのだろう。しかし、重要なのは、そのことによって、具体的にどのようなあたらしいイメージを生み出すことができるのか、ということなのだけれど・・・。

NHKのBSで、「 二十世紀ノスタルジア 」を放送していた。これは本当に傑作。こういう傑作を、ルーズな感じでサラッと作ってしまう、原将人って、すごい。この映画についてはまた改めて詳しく書きたい。