電車の窓からぼうっと外をながめている。ぎっしりと建て込んだ風景がつづくなか、ちいさなドブ河があらわれて、不意に視線がスーッと先の方まで伸びる。汚れた黒い水面に、この電車が映っている。すぐにまた建物で視線がさえぎられた。

昨日、NHKのBSでやっていた「 二十世紀ノスタルジア 」について。以前にある人に出したメールの一部を引用します。

先日、全く期待をしないで、広末涼子主演の「二十世紀ノスタルジア」という映
画を、(ビデオで、)観たのですが、ちょっとした傑作だったので驚いてしまい
ました。(監督は、原将人)

同じ日に、レンタルビデオで一緒に貸りてきた「TOKYO・EYES」(ジャン・ピエー
ル・リモザンという、カイエ・デュ・シネマで批評を書いていた人が、東京で
吉川ひなの主演で撮った映画)と、共通した部分が多くて、でも、「二十世紀ノ
スタルジア」の方ががずっと良かったように思います。

ビデオカメラやモニターというメディアが介在することによって顕在化する、<見る>という感覚の間接性と、<触れる>という感覚の直接性との差異、二つの
感覚の結びつきや、すれ違いについて映画、というか、
直接的な関係が(具体的な距離によって)断たれることで、逆説的に(メディア
を介して)結ばれるという、ある種の接触についての記述、というか、
切断(距離)と密着についての考察、というか、
そういう部分が共通していて、ニ本ともそれぞれ面白く思えました。

つまり、現代では、見ることと触れることとの関係(言い換えれば人の身体に
における知覚の配置のようなもの)や、他者との関係(接触)の形が以前とは
根本的に変化してしまっていることを示す、具体的な<症例>のような作品で
あるようにも感じます。

ぼくはこのメールで、現代的な症例、というような事を書いているけど、実際に目の前にいて、手を伸ばせば触れる事もできる人とよりも、空間的にも時間的にも隔たった場所にいて何らかのメディアによって間接的に結びついている人との方が、上手く理解しあえる、というのは何も「 現代 」に特有の問題という分けてではないのかもしれない。むしろこういう「 隔たり 」の感覚こそが、人の思考や感性を刺激し、複雑に発達させてきたものなのではないだろうか。ただ勿論、人は、触れたい、という単純で原始的な欲望を捨てる事はできないのだが。というか、触れる、という感覚の鈍い奴は、メディアによる間接的な接触、に関しても鈍いに違いないのだろう。
「 二十世紀ノスタルジア 」はまた、過去についての映画でもある。映画は夏休みが終わったところから始まる。女の子は夏休み中に、男の子と映画を作っていた。女の子はそれをラブストーリーだと思っていた。しかし、男の子はその映画のラストを、人類の滅亡を預言するシーンにして、いきなり終わらせてしまう。そして突然オーストラリアへと去ってしまう。女の子は男の子の考えが理解できない。男の子のいなくなった二学期、女の子は二人で撮影した膨大な量のビデオテープの映像を見直し、それを一本の映画として編集するという作業を始める。上手くいかずに何度か放棄してしまおうとするが、その作業を通して、次第に女の子男の子の悩みや苦しみを理解するようになる。
この映画では過去は、回想としてではなくビデオテープに記録された映像として現れる。(回想シーンが全く無い、という訳ではないのだが。)男の子との思い出についていくら深く考えてみても、男の子のことは理解出来なかっただろう。ここで、表現の物質性という問題があらわれる。女の子は、ちょっと気づかないような、僅かなテープに残っている男の子の呟きや断片的な映像などから、自分が知らなかった男の子の側面を発見してゆく。つまり、物質化された表現は、時間を超えて、現在へと侵入してくるのだ。物質化された表現(過去)はまるで幽霊のように現在に対して影響を与える。ビデオテープによる過去の映像は、現実の(生身の)男の子以上に、男の子について語ってしまう。
女の子は、男の子と二人でミュージカル・シーンを撮影した同じ場所へ一人で出かけて行き、自分にカメラを向けながら、一人で歌い、踊る。画面では、二人で撮影したシーンと、一人で歌い、踊るシーンがモンタージュされ、「 すごいよ、時間を超えたミュージカルができたよ 」という女の子のナレーションがかぶる。ビデオテープによって二つの隔たった時間はモンタージュされて融合する。そして、今、ここ、という観念は解体する。